ドライ
Dry
國冨太陽 Taiyo KUNITOMI
この度、四谷未確認スタジオにて國冨太陽による個展「ドライ」を開催いたします。
國冨の制作と作品は特異な仕方で成立しています。それはマルセル・デュシャン以降の芸術の基本的なプロセスとされる判断命名行為――まだ芸術として認められていない事物や文脈、カテゴリーを展覧会へと持ち込み、そして名前を付け――を反転させながら別の形態へと接木しているように感じられるのです。彼は芸術、そしてコンテンポラリー・アートにおける操作を、芸術ではなく私的でありながら社会的な状況、つまり遊びのなかで作用させようとしています。その作品からは、社会へのもっともらしい異議申し立てや提言ではなく、むしろ社会のなかへの静かな侵入を認めることができるでしょう。
彼の過去作『ソフトランディング』において「凧揚げ」はプライベートな命名行為へと変質させられました。しかし彼は今回、命名行為に限定されない「凧」、そして「凧揚げ」の可能性を探ります。本展は、彼が昨年から積極的に制作に採用している「張り子」の技法――粘土や木などでできた母型の上で濡らされた紙を乾かす――を用いて「凧」を作り、そして彼独自の話法のなかでオーディエンスを実際の「凧揚げ」へと誘うものです。
彼の実践を、その目と手で体験していただきたいと思います。是非、ご来場ください。
布施琳太郎(キュレーション)
ドライにむけて
スレッドカイト、通称ぐにゃぐにゃ凧という、一番簡単に揚がるといわれている凧の形がある。私はこの形が人が両手を広げた形に似ていると思っている。(例えば広井力という彫刻家はその著書『凧ー空の造形』の中でレインコート凧という、レインコートに骨を二本挿しただけの凧を、さきのぐにゃぐにゃ凧の流用として紹介している。)人の両肩から腰にかけての垂線は、手から凧糸を伸ばして人の形が凧になった場合、凧の骨に相当する役割を果たすのではないだろうか。人の形が空に揚がるとすれば、鳥のように羽ばたくのではなく、大きなものを抱きしめるようにして、風をつかまえればいい。
凧が乾いているなら揚げることができる。だから凧揚げの理由は他でもなく凧が乾いているからにつきる。凧が揚がっていればそれは凧が乾いていることを意味している。実はこれは私が作った理由であって、凧が乾いていることは凧揚げの条件の一つだとすれ理由にはならない。凧揚げをすると、吹く風を凧の形が媒介した振動に手が震わされ、その手を見るように空中の凧を見ていると、この快楽を語る言葉を知らないことが怖くて、けれどそれに隠す喜びがあった。凧揚げに出る理由は、楽しいからだ。楽しく遊ぶために凧は乾かしておかなければならない。濡れたままでは重くて、柔らかくて凧は揚がらない。
では凧が濡れているときとはいつだろう。その時間の一つは凧を作っているときだ。空に飛ばすものの中でも特に、凧には絵を描く。絵具は濡れているので、絵を描くと凧も濡れる。紙は濡れて乾くと形が変わる。それに糊をつけて、形の変化を形の複製へと利用するのが張子だ。人間のまま空を飛ぶことはできないが、人の形にはその可能性があると書いた。紙が想像した人の形に濡れて、乾いて固まるとき、それは凧揚げの理由である。私はこの恣意的な瞬間を作るために、凧の母型として粘土で彫刻を作っている。
凧が乾いていることが凧揚げの理由だ、というのは繰り返しになるが私のでたらめだ。それにこのでたらめを補強するように張子という技術を援用することによって、凧揚げの楽しさをもっともらしいことへと定義することにならないように注意してもいる。しかしそれ以上に私には、凧揚げが楽しすぎることによって、揚がらない凧は凧の形をしていても凧ではないとまで言われていることへの違和感がある。
空をゆくものの中でも特に、凧は自分で作ることができる。凧に絵を描くのは、自分で作ることができるからだと思う。
テキスト 國冨太陽
開催概要
名称:國冨太陽個展「ドライ」
会期:2019年8月25日~9月15日(金土日のみオープン)
時間:14:00~20:00
会場:四谷未確認スタジオ(東京都新宿区四谷4-13-1)
入場料:無料
キュレーション:布施琳太郎
主催:四谷未確認スタジオ
國冨太陽 Taiyo KUNITOMI
1998年生まれ。武蔵野美術大学彫刻学科在学。ゲンロンカオス*ラウンジ新芸術校第4期銀賞
"ソフトランディング" 2019,©genron
母親の偽名から現実とは違う家族を着想し、実践したそばから捨てるホームビデオとその台本。
"カモンベイビー(部分)" 2018
ロト6の予想数字を張子を使って抽せんする作品。
"贈る言葉" 2016
詩を作り、そこに出てくる形を木と絵具で再現した作品。
"私か指(貼り付け)" 2017,©Emiko Fukuda
壊れた自分の作品をガムテープで貼り合わせた彫刻。