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現代美術基礎Ⅰ



この度、布施琳太郎による連続講義『現代美術基礎Ⅰ』を開催する。

講義のねらいは「現代美術における基礎の定式化」だ。現代美術作品の制作だけでなく鑑賞のための基礎を探ることを目的に開催される。だからといって「アーティスト」や布施自身の制作を神秘化するようなことはしない。むしろ基礎とは、そうした個人に宿るものではなく、外在的なものだ。昨年末に『ラブレターの書き方』という制作論を世に出したからこそ、こうしたテーマのもとで思考を開始することが必要だと考えて開催する。

基礎という問題設定は現状の大学機関における美術教育について、その外部から自分なりに批判的に考えるなかで生じたものである。僕が問題に感じているのは、芸術における基礎が何なのかが曖昧なまま放置されていることだ。デッサン力、美術史の知識、お金の使い方と作り方、哲学的素養、嘘のつき方、確定申告の方法……なにが基礎なのだろう? それを解決しなければ「現代美術は分からない」「難しい」といった決まり文句に対して誤魔化さずに回答することはできないだろうし、アーティストが守るべき自らの権利も具体化しないだろう。

ただ、現状の僕の知識では「基礎を教えること」は手に余るかもしれない。しかし今回、講義を通じて皆で考えたいのは、あくまで「基礎とは何か」だ。基礎の位置を素描し、それが各種の制作や鑑賞へと組み込まれるプロセスを知ることで、各々の手で基礎から学ぶための足場を作ること。それなら築くことができることに賭け、そしてやらければならないと信じて……。

今回は昨年の講義(『ラブレターの書き方』『人間のやめ方』)の開催方法から少し変更を加える。これまでは「現地+オンライン配信」のハイブリットで開催としていたが、今回は「オンライン配信+アーカイブ」のみで行う予定だ。アーカイブ動画の鑑賞期限は設けず、各回ごとに講義資料(PDF)を配布する。講義資料だけでも独自の読み物として楽しめるはずだ。

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基礎(foundation)とは物事を成立させる足場である。それは震災が繰り返すこの国であれば、住居や美術館などの建築物と大地のあいだで、その強度を左右する物理的足場であると共に、何らかの学問的あるいは文化的な領域を成立させる理論的足場のことだ。僕はこうした両義性を「基礎」という語に持たせたい。

これまで、物理的にも理論的にも、基礎を盤石にするための研究や議論がなされてきた。だがそうした蓄積が活用できなくなっているように思える。物理的にも理論的にも空間の内外を規定し、架橋するはずの基礎の位置があやふやになっている。特に僕が活動する現代美術においては、個別的な状況における知識の活用にばかり焦点が当てられ、それがどのような基礎に支えられているのかを知ることが困難になってしまった。

たしかに無闇な「基礎づけ主義」は、植民地主義による西洋中心主義の反省に由来するポストコロニアリズム、近代哲学における真理の探求を批判したリチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』などによって批判されている。その現代美術的なバージョンはニコラ・ブリオーや椹木野衣による一連の批評的なテクストやキュレーションに認めることができるだろう。彼らは、唯一の体系に芸術を基礎づけることの不可能性を前提に、その非体系性を体系化した。そうした論理はベルリンのファッション雑誌「032c」による特集「ビッグ・フラット・ナウ」などにも引き継がれているように思える。ソーシャルメディアにおいて、異なる信条を持つ人々の議論が平行線をたどるのを見ない日はない。

その上で実感を伴って僕が語れてしまうのは、バイブスや世代論などの、部分的であることの素朴な美学への期待できなさである。その熱量だけで九十年代に活動をはじめた人々は逃げ切れるかもしれない。だが少子高齢化が進む現在の日本において、若者とは量的に少数者であり、だからこそ異物として発言しなければならない。そのとき、なぜ基礎づけ主義が批判され、それと同時に、自由や逸脱を言祝ぐことが要請されたのか、そのシステムを知る必要がある。

基礎に還元できない異物が、「異物」として輝くための戦略を練るために、そして自分とは別の異物たちとコミュニケーションするために、私たちは「基礎とは何か」を知ることが求められているのだ。

名称 現代美術基礎Ⅰ
講師 布施琳太郎
開催方法 オンライン配信+アーカイブ
時間 18:30〜20:00
日程 第一回:2月18日
第二回:3月3日(変更の可能性あり)
第三回:3月17日
第四回:3月31日
第五回:4月14日
第六回:4月28日  
料金 A 一般:10,000円
B 20歳以下or大学学部生:5,000円
X 全回配信(活動応援、追加要素なし):30,000円
※すべてに当日資料(PDF)の配布を含みます
予約 Googleフォーム
主催 布施琳太郎
問い合わせ rintarofuse@gmail.com


こうした思考は、僕が昨年末に刊行した書籍『ラブレターの書き方』を経てたどり着いたものである(だからといって本書を読まなければ、この講義を理解できないわけではない)。

あらためて内容を要約すれば、「自分語り=個の言葉」と「社会のための言説=公の言葉」の双方の価値を認めた上で、その境界が曖昧になった現代のなかで「ラブレター=二人であること」を通じて新たな主語を手にし、世界を制作し直すための理論書だった。結果として、個と公の混同が最も顕著な現代美術に触れることはなかったが、書き終わった後で『ラブレターの書き方』を現代美術と関係づけることは必要であり可能なことに気がついた。つまり次の本のブループリントを手にできそうでものが正直なところだ。それが今回の講義開催の動機になっている。

それは刊行記念トークで話した下西風澄さんから、詩人で批評家の吉本隆明の『共同幻想論』(1968年刊行)との類似を指摘されたことに由来する。この議論を用いることで、自分も含む各種の理論的枠組みを再考できるように思えた。

吉本は、宗教・法・国家の本質が、社会の生産様式の発展史(ロシア・マルクス主義的な意味での下部構造、経済的な基礎)とは関係がない「共同幻想」なのだと主張した。その上で彼は「対幻想」という独自概念を提示する。対幻想は男女の肉体的な生殖行為や子育てだけでなく、親子や兄弟姉妹といった性行為(セックス)とは異なる性的交渉の空間をも創出する「二人であること」の幻想だと言える。対幻想によって人々は国家という共同幻想のなかで家族や家庭を生きながら、対幻想を通して自己という幻想を維持することもできる。

つまり彼は基礎の位置を変えようとしたのである。そこには個と公の混同を、対幻想において理論化しようとする態度が見られる。

まだ準備中なため、この要約は正確さに欠けるかもしれないし、彼の議論のすべてが普遍的なわけもないので修正を加えるべきところも多い。だから今回の講義は賭けである。吉本隆明の語る対幻想こそが現代美術において欠けていたものでありと措定して、彼の議論を読み込んだ上で、それとは無関係だったはずの現代美術に関わるテクストや理論を読み解いていく。

第一回 『共同幻想論』を読む
一連の講義は詩人で批評家の吉本隆明が1968年に刊行した『共同幻想論』に基づいている。そこで本書を読む。
第二回 ミュージアムの分類と幾つかの美術教育
まず美術教育についての基礎論のリサーチに基づいた報告と、国立西洋美術館で展示する作品制作のために二年以上の月日をかけてリサーチしたミュージアム論を、ル・コルビュジエ建築の実地調査を踏まえて再構成して論じる。
第三回 ターンテーブルでまわる美術史と金
椹木野衣とニコラ・ブリオーという二人の批評家のテクストを交差させる。二人は、美術や批評が「唯一の体系に基礎づけられることの不可能性」を前提に、その非体系性を体系的に論じたという共通点を持つ。そこで具体例として登場するハウスミュージックやクラブミュージックの円環的な編集可能性を掘り下げる。その上で、実際にアーティストがどのように制作を実現するための資金を得ているのかも調査し、考えたい。
第四回 変換と合成の芸術
遠近法は本屋の入門書コーナーに並ぶような画一的なものではない。そうした前提で遠近法のバリエーションを考える。岡崎乾二郎による『ルネサンス 経験の条件』(2001年刊行)におけるブランカッチ礼拝堂の分析を中心として、ヒト・シュタイエルによる論考『自由落下のなかで:垂直性遠近法の思考実験』(2011年発表)と彼女の実作、そして日本の漫画とアニメにおける生死の描き方などを論じたい。
第五回 未定(ユートピアについて?)
ここまでの期間のリサーチに基づいて講義します。ロシアや中国の現代美術についての講義になる気がします。
第六回 もう一度『共同幻想論』を読む
ここまでの講義を踏まえて『共同幻想論』を意図的に逸脱的に読むことで、現代美術を個と公の余白に位置付け直し、必要な基礎論を提示したい。


最後に蛇足的な基礎論を付しておきたい。美術に限らず「基礎」は大きく三種類に大別できる。ここでは人間同士の会話だけではない広い意味での「コミュニケーション」を軸に見取り図を描きたい。

ここで言う基礎とは、第一に、何かを説明するための概念や記号(語彙、ボキャブラリーとも言える)である。もしも「絵画」という言葉が「なんらかの支持体の上に描画されたイメージ」だけでなく「豚肉の焼け具合」あるいは「並行宇宙におけるセシウム133原子の振動数」を同時に意味するのなら、私たちのコミュニケーションは混迷を極めてしまう。
その上で、もちろん意味のすれ違いは調停できる。だがそうして調停された意味の新たな定義、つまり再定義こそが、それぞれの領域におけるコミュニケーションの基礎となる(更新される)だけのことだ。一時的にであれ概念や記号の同一性が担保されることは、ひとつのコミュニケーション領域の成立にとって基礎となる。

そして第二に、基礎とは、ひとつのコミュニケーション領域における包括的な枠組み、つまり操作システムのことである。知的判断や知識運用の基盤となるシステム。それは数学における「四則演算(足し算、引き算、掛け算、割り算)」や「微積分」、詩作における「文法規則」や「韻律」「修辞学」、あるいは器楽における「ソルフェージュ」や「記譜法」など挙げればキリがない。
こうした操作システムによって、他者や道具、モノ、状況とのコミュニケーションが可能になる。私たちはシステムを通じて、概念や記号を用いて、コミュニケーションすることで労働や恋愛、学問、制作、鑑賞を行うのだ。つまり先ほど述べたような語彙の再定義(「絵画」の定義変更の相互了解)は、操作システムが共有されていなければ不可能なコミュニケーションだ。

A、概念や記号
B、Aの操作システム


たしかにシステムと概念を組み合わせることでコミュニケーションを適切に行うことができる。だが、単一かつ普遍的なシステムと概念だけで世界や人間の思考、道具が構成されているわけではない。個別具体的な状況において、それらのシステムと概念をどのように関係づけて再組織するのかを考える必要がある。この再組織の術こそが第三の基礎だ。
例えば、Adobe Photoshopなどの画像編集ソフトでは、RGB(Red, Green, Blue)情報を持つ複数画像の重ね合わせにおいて、四則演算の考え方を用いて、それぞれの値を計算することで「乗算(掛け算)」や「加算(足し算)」「オーバーレイ」などができる。こうした操作は、数学的なコミュニケーションをすることなく、メニューから選択肢を選ぶことで直感的かつ身体的になされている。

あるいは楽譜は、複数のパートに分かれた音や声を、ひとつの平面の上に変換して記述する技術である。流れゆく時間のなかでホールに響きわたることで、はじめて聴き取ることのできる複数の声のポリフォニーを、私たちは楽譜という静止した空間のなかに記述して持ち歩くことができるのだ。だからこそ順番を反転することも可能であり、ギリシャ系フランス人の数学者で作曲家のヤニス・クセナキスは楽譜を主体として、確率統計学的に無数の音を配置した楽譜をオーケストラに演奏させた。


クセナキスの楽譜の演奏プロセスを視覚的にグラフ化した動画

重要なことは「概念や記号によって構成されたシステム/システムのなかで定義された概念や記号」を、異なる状況でも運用できる事実である。そうであるのならAとBという基礎を、さらに再組織する技術が基礎Xとして存在することになる。

A、システムのなかで定義された概念や記号
B、概念や記号によって構成されたシステム
X、AとBを再組織する技術


つまりAとBという基礎は、どちらか一方が先立つことなく、Xを介して相互に定義され直し続けるネットワークなのだ。しかし、だからといってAとBに対してXが先立つ基礎なのだろうか?

実体験に基づいて、僕が疑問に思うのは、やはり現代美術における基礎の曖昧さである。大雑把に言ってA(概念と記号)とB(そのシステム)は過去、つまり歴史に属する。そして過去の蓄積を現在において再組織すること。それが現代性=同時代性(contemporaneity)だと思われている。つまり鑑賞と制作の双方において、Xこそが現代美術を学ぶための最短距離だと。

実際に僕が受けた美術教育はXを通じてAとBを教えるものだった。それは既に歴史化された戯曲や哲学理論を現在の都市で再演したりするようなワークショップである。言い換えれば、概念や記号とシステムのネットワークを再組織する方法を教えるなかで——しかも教員の実体験に基づいた特殊な再組織法=制作論を教えるなかで——、過去にどのような概念や記号とシステムが育まれてきたのかを教えるプログラム。それが僕が大学で受けた美術教育だ。
有意義な教育プログラムもあったのは事実である。しかし教育現場ではAとBをブラックボックス化することもある。その方がXが神秘化するからだ。

だからこの講義ではAとBへのアクセス可能性を考えたい。講義『現代美術基礎Ⅰ』では、A(概念と記号)とB(そのシステム)に出会い直すための手法を模索することになる。こうした目的のために『共同幻想論』のなかでも繰り返し論じられる『古事記』と『遠野物語』を読むことにもなる。遠近法のバリエーションも確認するし、お金の動きについても考える。遠回りだと思うかもしれない。だけど成果はあるはずだ。すべての制作と鑑賞のために歩んでみたい。

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布施琳太郎 Rintaro Fuse
アーティスト。1994年生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、社会を成立させる日本語やプログラム言語、会話などを操作的に生成し直すことで、映像作品やウェブサイト、絵画などの制作、詩や批評の執筆、展覧会のキュレーションなどを行っている。