二〇年代文化論としての身体・性・建築
この度、布施琳太郎による自主企画の連続講義「人間のやめ方」を開催いたします。
本講義に先駆けるかたちで、僕は、2023年1月から4月にかけて講義「ラブレターの書き方」を行いました。200名以上の方が参加してくださり、独特な熱気のなかで皆さんと一緒に考えを深めることができたかと思います。そこでは作品やコンテンツ、批評といった社会と個々人のあいだで機能する既成の枠組みではなく「二人であること」を起点とした制作のあり方と可能性を(根本的な意味で批評的に)考えました。その内容については年末にはまとまったかたちで皆さんの元にお届けできたらと考えております。
しかしまず手応えとして感じたのは、自主企画であっても、リサーチを行ってそれをまとめるための予算と時間を作ることが可能なのだということです。たくさんの方の手助けがあってこその達成ではありましたが、大学をはじめとした既成の教育機関のプログラムや助成金などに頼ることなく、ジャンル名の無い探求を行うことができることが分かりました。それは現代における知のあり方として僕自身が希望を感じる機会となりました。受講してくださった方々には、心より感謝いたします。
そしてこの度、新たに講義「人間のやめ方」を行いたいと考えております。それは哲学史的な議論というより、ひとりのアーティストとして20年代文化論を構想しながら過去の試みに学ぶプロジェクトです。つまりここで考えるのはあくまで制作論となります。全6回の講義を通じて、人間の身体、性、そして建築について、ニヒリスティックな態度に居直ることなく捉え直します。今回も美術などについての事前知識は必要ではありませんので、広く興味を持っていただけたらと思います。
名称 | 人間のやめ方 |
講師 | 布施琳太郎 |
開催方法 | 現地開催+配信(視聴期限なしのアーカイブ有) |
時間 | 14:30〜16:30 |
日程 | 第1回:2023年8月26日(土)
第2回:2023年9月9日(土) 第3回:2023年9月30日(土) 第4回:2023年10月21日(予定) 第5回:2023年11月11日(予定) 第6回:2023年11月25日(予定) |
会場 | 東京都 山手線沿線
(参加者には開催1週間前までに住所を送信いたします) |
料金 | A 全回配信セット:10,000円
B 全回配信+現地セット:20,000円 C 20歳以下or大学学部生only 全回配信セット:6,000円 D 20歳以下or大学学部生only 全回配信+現地セット:10,000円 ※すべてに当日資料(PDF)の配布を含みます |
注意事項 | ・現地参加は先着20名を予定しています。
・現地参加の会場にて飲み物の注文が必要になる可能性があります。その際は追加で飲み物代を徴収させていただくことになります(基本的にそうならないように会場を準備します)。 |
予約 | Googleフォーム |
主催 | 布施琳太郎 |
問い合わせ | rintarofuse@gmail.com |
今回の講義で扱う「20年代」は2020年代と1920年代を同時に意味しています。ここで向き合うのは2013年の映画『風立ちぬ』で描かれたような関東大震災と戦間期の状況であり、そうした時代に動植物や虫、機械などの非人間へと自らの主体を託した詩人たちの挑戦(宮沢賢治や左川ちかなど)、あるいはプロレタリア文学、日本のダダ運動である「マヴォ」、そしてフランスでなされた『シュルレアリスム宣言』、バタイユらによる雑誌『ドキュマン』の発刊、アメリカにおける小説『クトゥルフの呼び声』の発表、ディズニーによるミッキーマウスの誕生、モダニズム建築の台頭、ソヴィエト連邦の成立などです。
そういった100年前の事象を、今を生きる人々の問いや試みを踏まえて見直してみると、奇妙なまでに「何か」が同期しているように思えてなりません。そうした直感を「人間のやめ方」と名指してみるところから今回の自主企画ははじまりました。
あらゆる活動が社会的なアクションになってしまう「20年代」において、社会への働きかけと非社会的な領域の制作への分裂を生き抜こうとする文化実践を見つめ直すこと。それは「ラブレターの書き方」というテーマとも呼応しながら、ラブレターという主題では考え尽くすことのできなかった肉体の問題へとつながっていきますし、ラブレターと同じくアーティストや作家などに限らない多くの人々の制作論へとつながるものと考えています。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
——宮沢賢治『春と修羅』1924年
東日本大震災の直後にエッセイ『建築=都市=国家・合体装置』を発表した建築家の磯崎新は、1920年代を官僚主義の「都市」から資本主義の「大都市」への大きな転換の時代として捉えながら、2020年代において「超都市」への移行がなされるのだと予告しました。それはAWS(Amazon Web Service)というクラウドサービスを利用した「Zoom」などのサービスによって地球中の人々がコミュニケーションをしたコロナ禍の景色を想像してみれば、皮膚感覚を伴って想像できるパースペクティブです。もちろん実際の歴史がそこまで進化的に進むわけではありませんが、そういった考え方が既に提示されていたことを見逃すべきではありません。
しかしその上で、着々と進む地球の超都市化において、私たちの生や身体がどのように活用されるべきなのかについての議論が充分だとは言えません。個別的な議論はありました。ですが必要なことは見通しを立てることだと僕は思います。制作論としての「人間のやめ方」について考えることは、より大きな議論の足場をつくるための一歩になるでしょう。そのためには100年前の都市から大都市への移行期において、多様な領域の表現者たちが試みた実験があったことを思い出すべきなのです。
そして現在もまた、いまだ名もなき領域で、超都市における生と身体についての実験を行う人々がいます。そうであるなら、それら20年代文化の実験を比較する必要があります。
予告なく調整されることがあります
第1回 | 人間の形態:クトゥルフ、ル・コルビュジエ、大規模言語モデル すべての美術作品は身体と建築のあいだにある。そうであるのなら、私たちにとって「身体」と「建築」がどのように異なり、どのように同じであるのかを考える必要があるだろう。建築家のル・コルビュジエは人間を含む生命における本質的形態として「らせん」を捉えた。それは1929年のムンダネウムにおける「世界美術館」構想以降、美術館の形態として模索され続けた時間=歴史を空間において現出させるモデルである。そしてH・P・ラヴクラフトが1928年に発表した小説『クトゥルフの呼び声』を端緒とする一連の作品群における建築の非幾何学的可能性、あるいはここ数年注目を集めめる大規模言語モデルにおける「意味空間」などを世界把握のモデルとして整理しながら来るべき美術館建築の形態を考える。そうして構想され直す美術館建築の具体性は、人間の形態の再考へと私たちを誘うだろう。 |
第2回 | 変身と変質:左川ちか、カフカ、青柳菜摘 昨年布施がキュレーションした展覧会『惑星ザムザ』で参照された短編小説『変身』はフランツ・カフカによって100年ほど前に書かれたものだ。そこではタイトルの通り人間から非人間への「変身」が描かれた。その上で今回の講義では変身(Metamorphosis)と変質(Alteration)を比較した上で、その後者において人間であることからの本質的な逸脱を認める。そのためにジョルジュ・バタイユとカトリーヌ・マラブーの議論を通じてカフカを読む。最後には100年ほど前に活動した詩人の左川ちか、そして2022年に詩集『そだつのをやめる』を上梓した青柳菜摘を比較することで、たんなる逸脱ではないところで人間のあり方を実験する試みを確かめる。 |
第3回 | 独身者の機械:デュシャン、オナニー、押見修造 私たちの社会は様々な禁止によって成立している。一般的なところだと殺人、窃盗、裸、詐欺などだ。ある行為への禁止の命令は、その行為に対する忌避の感情をも惹き起こす。そしてオナニーやマスターベーションへの忌避は、西洋近代における医学、道徳、宗教の三位一体によって、病いであり悪であり罪であるという禁止に由来して生じた。こうして禁じられたエロティシズムに対して「機械」の位相を通じて向き合った人物として、マルセル・デュシャンと漫画家の押見修造を批判的に見つめ直すことで、今日の社会において可能で必要な性表現を考える。 |
第4回 | 人間でないものたちの祝祭:宮沢賢治、Tohji、新しい死体 準備中(ここまでの講義を踏まえて変更の可能性あり) |
第5回 | 生命なき都市:磯崎新、イーロン・マスク、ヴィタリック・ブテリン 準備中(ここまでの講義を踏まえて変更の可能性あり) |
第6回 | 海=太陽:洞窟壁画、パリ万博、水族館建築 準備中(ここまでの講義を踏まえて変更の可能性あり) |
「人間のやめ方」という講義タイトルは、荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの第一部(大都市化以前の19世紀末のイギリスが舞台)にて、主人公の宿敵であるディオが口にした「おれは人間をやめるぞ!ジョジョーーッ!!」というセリフから着想を得ています。しかしこの後に続くセリフ「おれは人間を超越するッ!」とは異なり、本講義は「人間の超越」を目論むものではありません。
また現在の生の困難や経済不況などに対するニヒリスティック(虚無主義的)な感覚を表現するために用いられているようにも思える「反出生主義」(たんなる趣味的なモードやムードであるだけでなく分析的な哲学から導かれる考えであります)とも、本講義の目指すところは異なります。さらに付け加えるのなら、昨今注目を集める絶滅についての哲学とも異なる生について考えることになるでしょう。
むしろ参照するのは、1920年代に政治的に弱い立場の詩人が動植物や虫、機械などの非人間的たちの身体を通じて行った主体の実験などです。彼、彼女らの試みは、存在への悲観というより、生への積極性に基づいたものでした。さらにそうした主体の実験は、100年の時を経て、現在活動する詩人やアーティストにも見出すことのできる傾向なのではないかと僕は予感しています。そこでは社会へのアクションではないと同時に私的告白でもない「人間のやめ方」による生の制作が試されています。
もちろん、そうした試みの紹介はあくまで一例に過ぎませんし、ここまで「異なる」と断じてきた考え方についても、あらためて比較検証しながら独自の関係図を描きたいと思っています。
そもそも「人間のやめ方」は、ここ半年ほど「ラブレターの書き方」というテーマのもとでリサーチを重ねながら最終的にテクスト化する時間のなかで取りこぼされてしまった問題に基づいています。それは「身体」です。例えば、3月の講義のなかで触れた話題として「オナニー/マスターベーション」がありました。そこでは西洋近代的な「私」が世界から疎外され、無私の恍惚のなかへと消滅していくような世界制作を考えようとしたのですが、十分に深めることはできていません。
またこの一年ほどの期間は、建築家のル・コルビュジエのテクストや図面の読み込みを並行して行っていました。機能主義的なモダニストのイメージを持たれることもあるコルビュジエですが、ゲーテを端緒とする形態学にも通じるような生物観で、建築や絵画、彫刻、コラージュなどの制作を行ってもいます。それは官能的ですらありながら、既に存在するものではなく、あり得るかもしれない身体構想でもありました。
こうして関連する用語を書き出してみると、「人間のやめ方」で目論まれている考えの輪郭を感じていただけるのではないでしょうか。未だ結論は分かってはいません。しかしそれでも、ここからの数ヶ月間で布施琳太郎が行う思索と並走しながら、現代において自らの思考を深めるために、この講義を役立ててもらえたらと考えています。