布施琳太郎 / Rintaro Fuse

不誠実な声帯

2016年

建築資材、映像、ペンキなど

不誠実な声帯

この展示は、古民家をゲストハウスへと作り変えていく工事の現場で開催された。

ある日突然、工事している友人たちが「いま布施くんが好きそうな感じになっているけど、なんかする?」と言ってくれたのだ。彼らはアーティストではないけれど、僕が好きなものをよく知っていた。この空間の変化していく過程と、ボクの今回の作品は相似の関係にある。

まず「工事現場」といっても、建物が骨組みから作り変えられるワケではない。あくまで建築の表層である床や壁、天井が交換され、塗り直されることで新しい環境へと作り変えられていくのみである。しかしその張り替え/塗り直しは、既にある空間の骨組み=パースペクティブの上で、モノの配列を変化させる。モノたちは持ち込まれ、置き直され、新たなとな配列を形成する。そして全体の状態が変化するのだ。固定された骨組みの上で配列だけが変化する。

ボクの作品はどうか?今回ボクはイメージと俳句を配置する。それは空間へと適切に配置されることで、全体として作品の状態を形成する。ボクの制作プロセスは、建築的な骨組み=パースペクティブに支えられながら、その上でモノたちの配置を組み替えるゲームのようなものである。しかしあまりに特異な配置の成果物、つまりインスタレーションは、表層を弄り回すだけであるにもかかわらず現実とは別の骨組み=パースペクティブを開示するのだ。それをイメージと俳句の、その正確な配列のなかで実践するのが『不誠実な声帯』におけるインスタレーションである。

展示写真
展示写真
展示写真
展示写真
このような配列と骨組み=パースペクティブの闘争は、先人の実践からも確認することができる。まず顕著な例としてセザンヌの絵画を上げることができるだろう。彼自身が繰り返し述べるように、セザンヌは絵画を通して「世界の震え」を表現しようとした画家である。そのために彼は、当時の絵画制作において支配的だった「幾何学的パースペクティブ」を流動化した。彼の絵画画面は「構築的ストローク」と呼ばれる、機械的に斜めに引かれた絵具のタッチによって覆われている。そのタッチは数本で束になって荒い色面を作ったり、それとは別に画面の上を自由に横断したりもする。彼は執拗にモノたちを観察しながら、その観察を1つの画面に統合し「世界の震え」を表現するために、機械的なタッチを用いたのである。

セザンヌ以前の絵画は、画面から現実をデコード(復元)することが可能だった。しかしセザンヌの場合はそうではない。確かにその画面上の絵具とモチーフの配列を確定させたのは、現実の風景だろう。しかしモノたちを見つめる視点は固定されずに揺らめき、そして画布は画面内の奥行とは関係のない機械的なタッチで覆われてしまっている。現実の風景をエンコード(変換)して生成されたセザンヌの絵から、元の風景をデコードすることは、想像のなかですら不可能だ。そしてセザンヌの絵画を前にして、セザンヌが見た現実へと至ろうとしてデコードするとき、キミは現実とは別の現実と直面することになる。今回の展示会場における表層的な組み替え工事。そしてその中で展開されるインスタレーション。それらはセザンヌの絵画におけるエンコード/デコードの非対称性と類似している。

そしてこの非対称性は俳句においても顕著である。俳句とは五・七・五の17音からなる定型詩であり、その全体の形は左右対称だ。九鬼周造は「対称的な形は何か固定的で有限なものをもっている」と言いながら、俳句は無限を表現しているとも言っている。

「至高の生」であり、「形のない形」である無限の表現は、非対称かつ流動的な形においてのみ実現される。そこから、日本詩歌のリズムの統一性は、本来五音と七音あるいはその逆の結合によって形成されることになる。長歌と今様歌はこの韻律体系によって構成されている。短歌と俳諧という二種の短詩は、五音と七音のこの正規の結合羈絆を、いわば弛めたものである。これらはより独立性と自由を獲得した。(九鬼周造「日本芸術における「無限」の表現」1928年の講演より)

俳句は全体としては有限な形をしている。しかしそれは五/七/五という部分の、十二/五あるいは五/十二への変化の可能性を内包した形なのだ。その変化は俳句の対称性を内側から破壊する。その「形」は左右対称であると同時に非対称であり、流動的なのだ。この対称性と非対称性へと二重化された言語の状態こそが「形のない形」である。ひとつ俳句の実例を出しておこう。

ほろほろと やまぶき散るか 滝の音(松尾芭蕉「笈の小文」より)

ここでまず注目するべきは「やまぶき散るか」の「か」である。これは切れ字と呼ばれる俳句の基本的な技法であり、俳句を読み上げる読み手の声の流れは、ここで一度切断される。しかし翻って「ほろほろと やまぶき散るか」という五音と七音が接続され、1つのまとまった流れを音と情景の双方から作り出すこととなるのだ。しかしそれは「滝の音」の現前によって乱される。十二/五の2つに切断された発声と情景。しかしそれは散りゆく山吹の情景へと統合された五/七の切断を内包している。俳句の持つ抗いがたい魅力は、このような多層的な接続と切断の変化の中で立ち上がるのだ。

その多層性は、セザンヌの絵画においては画面の奥行と個別のモチーフを横断する機械的なタッチであり、インスタレーションにおいては建築の骨組み=パースペクティブを攪拌する自由な配列である。それらは気の向くままに配置されるのではなく、事前に用意された「形」を内側から破壊し、空間に急転回をもたらす。そのためにモノたちは単に置かれるのだ。

会場に掲示されたテクストより