「二度と見たくない」とは何か? ——人力超超超長文の『秒速5センチメートル』への想い
布施琳太郎
この文章は実写映画『秒速5センチメートル』についての批評です。
執筆の動機は、Xに投稿した本作についての感想が人生ではじめて10万近い「いいね」をいただき、異なる領域の作家である自分なりに、私が感じた「二度とみたくない」について言語化したいと思ったからです。加えて、引用投稿のなかで何人かに指摘された「男にしか刺さらない映画」という批判点について(反論ではないないですが)異論があるため、この点についても後半で書きます。
具体的には「感情移入とはなにか?」について考えるのが、この文章の目的です。
秒速5センチメートル。たぶん二度と見ない。ぜんぜん映画を見た気がしない。見たことのあるものしか画面に出てこない。新海誠の映像と違って画面に奥行きがない。汚れたレンズで街を見るみたいに平坦。この30年を生き直したみたいだ。人生で見たなかで最も論理的な作品。本当に素晴らしかったです。
——2025年10月26日 午後6時39分
経験としての『ラブレターの書き方』がついに完成した、って感じ。新海誠、ボイジャー、東京、ラブレター。ボーイミーツガールではなくガールミーツボーイの映画だった。
——2025年10月26日 午後6時41分
いやあ、やっぱり今回の『秒速5センチメートル』は映画には思えないな。深夜に友だちがスマートフォンの小さい画面で未発表の映像作品を見せてくれて「ああ、こういう論理でつくってきた人なんだ」と気がつくような、そんな体験だった。
——2025年10月26日 午後6時45分
だからこそ、二度と見たくないと思ったな。
——2025年10月26日 午後6時47分
鑑賞直後に書いたように、その後見直したりはしていません。そのため今から私が書くことになる文章は、アニメ版の監督である新海誠だけでなく実写版の奥山由之監督、脚本の鈴木史子、役者の方々、プロデューサーなどの複数の「作者」が想定した受け取り方とは大きく異なる可能性があります。つまり考察ではなく、作品からの触発にもとづいた「批評」となります。
記憶違いもあるでしょうが、なんらかの作品を鑑賞しながら/した後で、純粋に思考するってのは、勘違いとともにあると思っています。ネタバレとともに、そうした点について了承いただけたら幸いです。
(以下、2007年のアニメ映画を「アニメ版」、2025年の実写映画を「実写版」と表記します)
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まず実写版を鑑賞して、アニメ版との大きな違いとして気がつくのは「回想的な映像になった」ことだと思います。小学生時代、高校時代、大人時代と三話にわけられたアニメ版に対して、実写版は大人時代を軸としながら、幼少期を回想するような一気貫通の脚本へと書き換えられています。
結果としてアニメ版のファンであれば「その後」を描いていると感じるような側面もあったかと思います。しかしアニメ版の公開当時中学生だった私にとっては、小学生時代〜高校生時代こそが「いま」であり、作中の大人時代とは「未来」でした。なんなら雪の栃木で落ち合う二人と、私は、同い年でした。そして実写版では、そんな未来が「30歳」として明確に数字になっている。恥ずかしながら「自分のことだ」と思ってしまう瞬間が、映画を観ながら何度もありました。
ですが(ここからネタバレです)、
そうした映像上の時間構造よりも、小学生時代の「約束」こそがアニメ版と実写版の違いのひとつだと思います。「2009年3月26日の夜7時に」という約束をひきずって、ずっと覚えていて、約束を果たそうと走る男性に対して、それを「約束をしたという思い出」としてのみ記憶している女性。このズレにおいて、私たち(というよりも僕、かもしれませんが)は、架空の16年前の約束へと想いをはせる。
アニメ版の予告編の冒頭で、二人の声で、語られる台詞。
「あの人との約束の当日は」
「昼過ぎから雪になった」
アニメ版を鑑賞した限りにおいて、その約束は、遅刻したとしても果たされました。しかし実写版においては「約束を約束として覚えている男」と「約束を思い出として覚えている女」のすれ違いのロマンスへと変換されている。
それが最大の効果を発揮していると感じた演出があります。アニメ版は主人公の遠野貴樹の内面に共感しながら鑑賞するものでした。しかし実写版では、むしろ彼の周囲にいる女性たちにこそ感情移入するような脚本になっています。これは新海誠作品にはみられない特徴だと思います。結果として、実写版の鑑賞は、遠野貴樹の周囲にいる女性の心の機微から「遠野貴樹という視点人物の内面を想像する」ような体験となっていました(この時点で新海誠作品へのありがちな批判が一定程度軽減されている)。
実写版の前半は、まるで知人の恋バナを聞きながらドキドキするような、間接的な感情移入でした。しかしそれは遠野貴樹と篠原明里が再会するかもしれない、というシーンでひっくり返るように感じました。つまり「ついにタカキがアカリと再会できるのかも?」という予測のなかで、急にタカキの側への直接的な感情移入がはじまったように感じたのです。
しかしその日は会えませんでした。それでも「会えるかもしれない」と栃木へと走り出す遠野貴樹へと徹底的に感情移入してみる。だけどそこで急に明かされるのは「アカリは幼少期の思い出としてしか約束を記憶してないし、そんな約束を忘れるくらい幸せに生きていてほしいと思っているし、そもそも結婚している」という事実です。
そのときに「ああ、もう『秒速5センチメートル』を観なくてもいいんだ」という感情になったのです。ぐるぐると遠野貴樹の内面へと近づいていった自分が、遠野貴樹を通じて「かつてしたかもしれない約束を忘れてしまって幸せに生きていていいんだ」、さらには不気味なことに「もう覚えていない誰かが「約束なんて忘れて幸せに生きていて」と願ってくれているのかもしれない」と思ったのです。
おそらく、そんな幸せな約束をしたことはないのです。だけどアニメや漫画、文学、音楽、ゲームなどの芸術作品を通じて、その世界のなかででした体験は、いまの僕をかたちづくっています。いや、僕だけではないでしょう。そしてその世界に置き去りにしてきた仲間たち(恋愛関係だけでなく架空の恩師やポケモンまで)との関係について、実写版は、ひとつの向き合い方を提示していたように思います。
つまり……約束を思い出にするためには、もう一度見ない方が良いと思ったし、この映画を繰り返し見ることは「約束を約束としてフィクションの世界にしがみつく」ことになるのではないか?そう感じたのです。
だからこそ、こんな文章なんかよりも、よっぽど精緻に構成された「新海誠批評」が実写版だと思いました。フィクションが現実の人生の一部をかたちづくる世界で、そんな人生におけるフィクションのあり方を示すこと。そのことを僕は「論理的」と形容しました。
こうした経験は、実写版の映像が、フィルムレコーディング(デジタルカメラによる映像をアナログフィルムに焼き直す技術)でつくられているという事実にも重なり合っているように思います。実写版は「思い出っぽさ」というニセモノ感を全面に押し出しています。それは約束との向き合い方を二種類同時に示すためのニセモノ感だと受け取りました。言い換えれば「青春からの卒業」として受け止める限りにおいて、本作は、批評的だと感じたということです。
他の一般的なアニメと同じように、新海誠による映像は、映像編集ソフトのなかでレイヤー(層)としてキャラクターや背景を重ね合わせてつくられています。そうしてリアルな背景とデフォルメされた人物が合成されます。しかしそれらの異なるレイヤーを横断するように「光」が演出されることで、特殊なリアリティをつくるのが新海誠作品の特徴です。これに対して、実写版は、同じリアリティの層にある背景と人物に対して「新海誠のような光」を差し込む。つまり新海誠においては空間の奥行きを表現するためにあった光が、実写版においては画面の平坦さ=アニメ的かつ新海誠的なうつくしさを表現するための要素に変わっているのです。
さらに、ピントがあった位置を前後させる映像技術(ピン送り)なども最小限に抑えることで、写真のスライドショーのような平坦さをつくろうとする努力が、そこかしこに発見できます。こうした技術の選択もまた、実写版制作陣による新海誠の批評的解釈であると言えるでしょう。
長くなってしまいましたし、まだ語り切れていませんが、これを縮めて言うと……
秒速5センチメートル。たぶん二度と見ない。ぜんぜん映画を見た気がしない。見たことのあるものしか画面に出てこない。新海誠の映像と違って画面に奥行きがない。汚れたレンズで街を見るみたいに平坦。この30年を生き直したみたいだ。人生で見たなかで最も論理的な作品。本当に素晴らしかったです。
となったのです。
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さて、もうひとつの点について。「男にしか刺さらない映画」という引用投稿と同様の趣旨の批判は、これまでも新海誠作品に向けられてきたものでした。今まで読んだなかでも印象深かったのは新海誠監督作『すずめの戸締り』の公開当時、格闘イベントのブレイキングダウンなどで著名な格闘家の瓜田純士・麗子夫婦になされたインタビューでした。記事のタイトルは「“キング・オブ・アウトロー” 瓜田純士、『すずめの戸締まり』を観て気絶!」という強烈なもので、思わず最後まで読んでしまいました。
大雑把に要約すると、そこで二人が指摘しているのは「冒頭で走る主人公の声が喘ぎ声にしか思えない」「こんな男や女がいるわけないだろ」という二点で(ちなみに麗子氏は感動して何回も泣いているらしい)、新海誠映画好きの自分としても、まったく正当な批判だと感じたのを記憶しています。たとえば「小学生に見せたいか?」と訊かれても「別に……」と思うという意味です。
2007年のアニメ版公開からの期間で、多くのことが変わりました。スマートフォンの流通やソーシャルメディアの全面化、東日本大震災や気候変動、新型コロナウイルスなどの生活の実感レベルでの変化もさることながら、映画や小説、美術、音楽、ゲーム、漫画などの芸術表現についての倫理的な側面についての問い直しも徹底的に行われました。
コンビニでの成人向け雑誌の販売停止だけでなく、ハラスメントのない現場づくりについての議論も各業界でなされました。さらに女性の身体や存在を「性的なモノ」として過剰に扱うことへの批判や見直しも、専門家や活動家だけではなく学校や会社などの日常レベルでなされています。
これは脱線的ですし新海誠作品の問題ではないですが、そもそも「美少女」とは「若い、きれいな、女」という点で「エイジズム(年齢差別)+ルッキズム+セクシズム(性別差別)」の合体した概念です。それが戦後の日本文化を盛り上げてきた側面があるのは事実だからこそ、なぜ日本の芸術作品には美少女が要請され続けてきたのか?は検討されるべきです。しかし昨今の漫画やアニメでは、見た目としては美少女的であったとしても、性別が明かされていなかったり、年齢を過度に重ねていたりするキャラクターも多く登場するようになっています。それが炎上回避のような消極的な動機のせいなら悲しいことですが、人間に限らない生物の性的多様性を反映するような多種多様なデザインがなされたポケモンたち、あるいは市川春子の漫画『宝石の国』など、あるいは漫画『チェーンソーマン』など、旧来の美少女消費の仕方では捉えきることのできないキャラクターが作品世界に厚みを加えているのは、とても興味深いことです。
なかでも重要な事例として村田沙耶香による一連の小説があります。2016年に芥川賞を受賞した『コンビニ人間』が有名な村田ですが、今年末に実写映画化予定の『消滅世界』では「恋愛、セックス、家庭生活」をバラバラの相手と過ごし、さらにその相手が「人間に限らない(キャラクターも含む)」という点で「村田沙耶香以後」としか形容できないようなロマンス(ア・ロマンティックともフィクト・ロマンティンク言える)の地平を切り拓いています。しかもたんなる問題提起ではなく、物語としても抜群に面白く、文学の未来について期待させてくれるものだと思っています。
さて、瓜田夫妻の率直な指摘もさることながら、こうした倫理観の変化のなかにあるのが人間関係をあつかう芸術の現在地だと思います。もちろん倫理的な問題と作品制作上の工夫を混同しすぎるのは良くないことです。しかし今回の『秒速5センチメートル』の実写版は、すでに存在しているアニメ版の物語構造を、演出によって脱構築すること(この文章の文脈で言えば「感情移入」や「画面」のあり方によって約束の意味を二重化して物語構造を再構築すること)で、今日的な価値観へと適合させながら、回想的に過去を描くことで「過渡期」であることの責任を取ろうとするものにも思えました。それがまだまだ保守的なものなのか?は、今後の批評などで検討されることでしょう。
少なくとも、私としては、アニメ版では観るに堪えないと感じる観賞者のことも考えてつくられた作品だと思いました。とくに脚本の鈴木史子がどの程度の役割を果たしたのかに興味があり、彼女が前年に原作と脚本をつとめた映画『雪子 a.k.a』も観たいと思っています。
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最後になりますが、僕がすごく好きな映像に、Appleによる2021年の販促映像「Macの向こうから」の新海誠へのインタビューがあります。今は非公開なので一般ユーザーが転載したものしかないのですが……そのなかで彼は、自身の制作の仕方について、以下のように語っています。
僕は長野県のすごく田舎で生まれ育ったので、あんまり遊ぶ場所がないというか、眺めるものもないというか。空の存在感がすごく強い場所だったんですよ。
自分がすごくきれいだと思う空であったりとか、風景の一部になりたくて。その一部になるための手段っていうのが、絵を描くこととか、まあ、ちょっとこう……詩のような言葉をノートに描くことだったりしたんですよね。
だけどそれは、どこまでいっても断片でしかなかった。それを全部、一台のなかで扱うことのできる道具が自分の手元に来た途端に、ひとつ大きな物語につながっていったんですよ。
ここで語られているように、新海誠の(初映像作品ではないとしても)事実上のデビュー作『ほしのこえ』(2002年)は、脚本、作画、CG、編集から主人公の声までをひとりで担当したものだった。それはあくまで個人的な想いに基づいたものなのですが、むしろ個人的な動機にもとづいたアニメ映像を映画館のスクリーンで上映できてしまう状態で完成させてしまったことに、コンピュータを使用した映像表現の新たな地平を感じて、当時の人々は衝撃を受けたのだと思います。
その内容もまた「地球と宇宙に引き離された二人の男女がガラケーをつかって遠距離恋愛をする」というSF的な設定が、ゼロ年代の若者のリアルな感性を表現するものでした。私自身は、iPhoneが発売されたけれど、まだみんなガラケーをつかっていた2007年ごろに鑑賞した記憶があります。中学生でした。
(筆者はアーティストとして絵を描いたり、詩をつくったり、展覧会を企画したりして活動してきた人間です。その根元には新海誠がデビュー作『ほしのこえ』を「ひとりでつくった」という伝説に看過された経験があります)
そうした個人的な動機が、すべての人間が要請する倫理や欲望を満たすものではないことは、当たり前だと思います。むしろ新海誠以後の芸術作品の地平があるのだとしたら、パソコンによって断片的なデータ(画像や文字、音)を組み合わせて自由に制作するところにあるはずだと思っています。そうしてつくられた作品は互いに違っていて、それぞれに異なる倫理や欲望を表現していることでしょう。つまり「新海誠的な作品」があるとしたら「制作環境の変化によって可能になった倫理や欲望の複数性」のことであって男女のロマンスではないはずだと私は感じています。
その点で、私は新海誠を尊敬しているのです。
さらに言えば、これはコンピュータと人類のかかわり方を「AI(人工知能=Artificial Intelligence)」ではなく「IA(知能増幅装置=Intelligence Amplifier)」として捉える20世紀由来の態度です。リックライダーやダグラス・エンゲルバートなどの20世紀半ばの心理学者や計算機科学者たちは、国家や軍部、大学、大企業が独占使用して研究するメインフレーム・コンピュータ=人工知能に対して、一般市民が使用する安価で使いやすいパソコンによって人々の知性を増幅することを夢見ていた。
ヴァネヴァー・ブッシュというアメリカの科学者が1945年にMemex(記憶=Memoryと模倣=Mimicを組み合わせた造語)という装置を提唱した。それは今日のパソコンやスマートフォンにつながる基本的なアイデアとなった。そこで構想されたのは、連想的に、言葉や画像、音などがつながりながら参照し、新たな思考を開始できる装置である。まさに新海は、Memex的な知の場としてコンピュータを使っている(現代のアーティストたちもそうだろう)。
それから半世紀が過ぎてスマートフォンのなかでもAIを動かせるようになった。しかしAIの多くは、かつてのメインフレームと同じように、大組織によって管理されるものとなってしまった。だけど新海誠が教えてくれたのは、コンピュータを通じて私たちの人間の能力が増幅されて、それまでは不可能だったアニメ映画の制作までが市民に解放される景色である。
これは完全に私個人の想いだが、自らの欲望に従って、言葉を書いて絵を描き、それらを組み合わせて映画化する時代が到来しようとして欲しいし、到来したように思える。そのときに新海誠は国民的作家ではなく、市民的作家として捉え直されるだろうし、その限りにおいて「男しか……」という倫理的かつ趣味的な批判を乗り越えるのではないだろうか?
参考文献:
『松村北斗 × 奥山由之 × 新海誠 スペシャルトークセッション』東宝MOVIEチャンネル、2025年。
https://youtu.be/kGXyDI1T9Qo?si=GfspGbmvaxWFj-_w
『“キング・オブ・アウトロー”瓜田純士、『すずめの戸締まり』を観て気絶!「映画でこんなストレスを感じたのは初めてだ」』日刊サイゾー、2022年。
https://www.cyzo.com/2022/11/post_328596_entry.html
西垣通『思想としてのパソコン』NTT出版、1997年。