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これは国旗ではない。これは太陽ではない。これは爆発でもない。

布施琳太郎|Rintaro Fuse

YEAR
2026
MEDIUM
HTML file
STATUS
公開中
暗い室内でノートパソコンに表示された本作。

この作品の概要

この度、布施琳太郎による新作ネットアート《これは国旗ではない。これは太陽ではない。これは爆発でもない。》を発表します。上記のリンクから誰でも鑑賞することができます。

本作は、1999年に成立した「国旗及び国歌に関する法律」の法文を起点としています。比率や色彩のみを定義する法文を、まるでウェブデザインにおけるスタイルシートのようだと感じたことから、本作は着想されました。鑑賞者がブラウザウィンドウの縦横比を法の定める比率に調整すると、画面が日章旗としての条件を一時的に満たします。基本的には、それだけの作品です。しかし凝視していると、紅色の円は青い残像へと反転しながら鑑賞者の網膜に移り、誰とも共有されないまま、数十秒で肉体の内部から消失します。

これまで布施は、一人ずつしか入れないウェブページを会場とした展覧会『隔離式濃厚接触室』(2020)をはじめ、日時計、日出と日没をめぐる映像やインスタレーション、詩を通じて、いかにして私たちがばらばらな時間に触れることができるのかを探求してきました。

この作品もその延長にあります。制度的、技術的、肉体的な条件のあいだで生じる摩擦にかたちを与えること——布施が芸術の条件と考えるその作業を、ここでは国家の象徴であり太陽の図像でもある円形に対して行います。赤い円を、世界を生成して統治する起源としてではなく、互いの経験を完全には共有できない肉体の隔たりへと変換するのです。ここで試されているのは「損壊/消失」の違いです。

国旗を成立させる法的・技術的・知覚的条件を一時的に組み立て、そして解除する。国旗を切り裂いたり燃やしたりするのではなく、一人の視覚のなかで消失させる。そんな時間を、単一のHTMLファイルと鑑賞者の肉体を通じて実演する作品です。

青い太陽の消失、制作中の思考のアーカイブ

これは国旗ではない——比率について

国旗及び国歌に関する法律に示された日章旗の寸法、日章の位置、彩色。
「国旗及び国歌に関する法律」別記第一「日章旗の制式」

ウィンドウの縁をつまむ。数ピクセル動かすと、紅色が正円へと収束する。けれどまた少し動かすだけで色彩が拡散する。国旗に触れているのではない。触れているのは比率だ。

「国旗及び国歌に関する法律」(通称「国旗国歌法」)は、国旗の「縦」を「横の三分の二」とし、「縦の五分の三」の「紅色」を「旗の中心」に置くと定める。まるでウェブデザインにおけるスタイルシート——図形の種類、位置、サイズを指示するコード——のようだ。この連想こそが本作のアイデアのコアである。

まず法文は比率によって国旗を定義している。しかしそこには「日章(日の丸)」が正円であるとは書かれておらず「紅色」がどんな色なのかも定義されず、別記の図版で視覚的に掲げられているのみである。文字による規定だけでは図像を一意に定めきれないため、法律は別記図版を必要としているように見えた。そこでためしにChatGPTに「日本国旗のことではないとして、誤読を恐れず法文のみを文字通りに解釈して画像生成をして」といった趣旨のプロンプトを投げると、以下のような画像群が生成された。

法文を日本国旗とは切り離して文字通りに解釈し、ChatGPTが生成した六つの画像。
ChatGPT 5.6 Solによる生成画像

極端な誤読である。これらを「日本国旗」だと思う人はいないだろう。国旗は法文のみに基づく図像ではなく、制度、判断、慣習が重なることで成立している。だからこそ2026年7月17日に成立した「国旗の損壊等の処罰に関する法律」(通称「国旗損壊罪」)の第一条は、国旗を「国旗として用いられていると社会通念上認められる有体物」と定義し直した。言語で定義されているのに生じてしまう「表現の幅」に、社会通念という語で対処したのだ。しかし、疑問は尽きない。有体物とはなにか。画像データは有形物ではないのか。白い壁に投影された紅色の円は。

思えば「国旗国歌法」は、誤読を含んで実行されるインストラクション・アートのようである。インストラクション(指示)にもとづくアートは、作者が完成形を直接制作するのではなく、指示を受け取る他者の実行や想像に作品を委ねる。今日のプロンプトによる画像生成もまた、異なる仕方ではあるが、言葉と結果のあいだに予測不能な解釈を介在させる。例えばオノ・ヨーコの著作『グレープフルーツ』(1964)には「月に匂いを送りなさい。」「この本を燃やしなさい。 読み終えたら。」といった指示が多数収められ、実行の可否、命令すること/されること、現実/虚構の区別が実験されている。本書が詩的であるのは、ひとつの指示が異なる結果を想起させるからだ。

ルネ・マグリットは《イメージの裏切り》(1929)で、パイプの像に「これはパイプではない」と書いた。約一世紀後、「国旗損壊罪」の提出者側は、絵画、漫画、アニメ、ゲームに描かれた旗は処罰対象ではないと説明した。描かれた国旗は国旗ではない。マグリットのキャプションが、立法上の区別として反復されたようにも見える。だから本作のタイトルは、この法律が施行される前に、三度名乗っておくことにした。これは国旗ではない。これは太陽ではない。これは爆発でもない。

これはたんなる否定ではない。幾何学的な厳密さに照らしてみれば、市場に流通する国旗のほとんどが法定比率を満たしているのか疑わしい。客観的な基準などなく「別記図版」や「社会通念」を通じてしか定義できないのが国旗としての日章旗なのだ。

たしかに画面上のピクセルであれば正確な国旗をつくることができる。しかし「描かれた国旗は、国旗ではない」。本作はウィンドウの縦横比を操作することを求める。ウィンドウ比率を調整するためにはフルスクリーン表示を解除しなければならない。そのとき日章旗は重なり合う複数のウィンドウのひとつとしてしか、つまり漫画のなかの一コマのようにしか、画面のなかに「描かれた国旗」としてしか、存在できないのだ。タイトルの三つの文は、実はこの遷移をなぞっている。ウィンドウのなかの円は国旗ではなく、フルスクリーンの円は太陽ではなく、網膜に残る円は爆発でもない。

これは太陽ではない——摩擦について

ここまでは比率の話をしてきた。ここからは、その比率が包んでいる重さの話をする。芸術とは何かについて、私は考えている。私にとっての芸術とは、技術的、制度的、肉体的な条件の違いが惹き起こす摩擦にかたちを与えることだ。たとえばマウスは、コンピュータと肉体を調停して、新たなコミュニケーションの形式を創出した。あるいは『鉄腕アトム』(1963)は、死んでしまった息子が原子炉を内蔵したロボットとして復活することで幕をあける日本最初期のテレビアニメだった。それが大衆的であろうとマイナーであろうと、摩擦にかたちを与えるのが芸術である。

そういう意味で私は、日章旗に嫉妬している。それは私が考える芸術の条件を満たしている。洗練されていて美しい。と言いたいのではない。愛国感情すら重要だとは思えない。大きな摩擦にかたちを与えている点でのみ、だ。

その摩擦とは何か。まず現在の国旗を、近世以前の太陽図像、日章(日の丸)の単純な継承とみなすことはできない。日章は朝廷の儀礼や祭礼、武家の旗印、船印などの多様な場で用いられていた。しかし19世紀半ば、日本船を外国船から識別する標識として近代国家の象徴へ転化した。その後、日本が帝国主義と植民地支配へ進むと、日の丸は台湾、朝鮮半島、中国大陸、東南アジアで、日本軍の進出と統治を可視化する印にもなった。同じ白地と赤い円が、置かれる場所と使用者によって別の対象として判定されてきたのである。図形はほとんど変わらない。変わるのは、それを取り巻く制度、身体、状況の方だ。この単純な赤い円には、太陽や祝祭だけでなく、国境、戦争、侵略、敗戦の記憶が折り重なっている。

作者不詳《旭日丸》1856年頃。
作者不詳《旭日丸》1856年頃(船の科学館所蔵、パブリックドメイン)

実際、沖縄における日の丸の意味も、一つに固定されてこなかった。明治期には、琉球王国の廃止と沖縄県設置、その後の日本への同化を進める制度や教育と、日の丸は結びついた。だが米軍統治下では、日本国憲法への復帰を求める抵抗の旗として市民によって能動的に掲げられすらした。しかし1972年の復帰後も基地負担が沖縄に集中しつづけるなかで、日の丸に託された期待は揺らぎ、再び批判や拒絶の対象ともなった。日の丸は、帰属への願いと同化への拒絶、解放の約束と裏切りを、同じ赤い円のうちに抱え込んできた。日章旗が国民感情と強く結びつくのは、それが近代化以降の日本の歴史の明暗を刻んできたからだと、私は考える。

先ほど私は「日章旗に嫉妬している」と書いた。しかし正確に言い直そう。旗は摩擦にかたちを与えたのではない。摩擦を一枚の単純な図形へと畳み込み、見えなくしてきたのだ。かたちを与えることと、封じ込めることは違う。私が嫉妬を感じたのは、その封じ込めの強度だったのだ。だから本作は、旗が畳み込んだものを、法文の側からもう一度ひらく。本作が操作するのは比率と網膜だけである。そしてそこでは二度、日の丸が消える。封じ込めが永続を必要とするなら、消滅はその反対の運動である。消えるものは、何も畳み込むことができない。この消滅こそが摩擦にかたちを与える営み、芸術なのだと、あらためて言いたい。タイトルに記された通り、本作は国旗ではない。あくまで作品なのだ。

これは爆発でもない——消滅について

人類で最初に、白い布に赤い円を描いたものがいたはずだ。そんな名もなき画家こそが本当の意味での芸術家なのだ。その画家は「日本」などと無関係に描いただろうし、その瞬間の赤い円は、別に太陽として認識されなかったかもしれない。絵具ではなく血を使ったかもしれない。いや、そんな人物はいなかった?——ここで重要なのは史実ではない。あまりに多くの摩擦を取り入れること。忘れられたはずだった記憶を思い出すために「最初の画家」を仮置きすること。最初の画家から今日までの歴史が直線ではつながっていないこと。そもそも最初の画家を具体化することも、そこへと歴史を収束させることもできないこと。起源は互いに関係のない場所で何度でも発生しうるだろう。そして芸術こそが起源を、ひとつではなく複数にするのだ。

ともかく日の丸は、ひとつの意味や立場だけに固定できない。しかしその意味の変転を封じ込んで見えなくさせる。だから本作はそこに「消失」という運動を重ねようとする。法によって規格化された日の丸が画面上で形成され、凝視ののちに残像として鑑賞者の網膜へ移る。消せないものとしてではなく、消えてしまえるものとして、日章を扱いたかった。国旗を切り裂いたり燃やすのではなく、日の丸を消失させたかった。

円を凝視するために、私は一度それを太陽と呼んでみる。かつてジョルジュ・バタイユが書いた太陽のように。しかしそれは、太陽である必要はない。眼球でも、警告灯でも、モニターの故障でもよい。凝視によって起きるのは、図像の真意の発見ではなく、赤が青へ変わる生理的な反応だけである。

彼によれば、見つめられる前の太陽はまず最も高尚な観念である。しかし見つめられた太陽は眼を焼き、見るものを狂気と失明の側へ反転させる——彼はそれを「腐った太陽」と呼んだ。本作は、画面の明るさしか持たない。国旗にせよ、本作にせよ、規格化された太陽とは、直視できるまで弱められた太陽である。だが、何も起こらないわけではない。30秒の凝視ののち、画面は灰色に染まり、鑑賞者の眼のなかに紅色の補色である青い円が浮かぶ。紅は青へ、掲げられた象徴は残像へ、反転する。そして誰にも共有できない青い太陽が消滅する。

バタイユと交流のあった芸術家に岡本太郎がいる。「芸術は爆発だ」というキャッチコピーで知られる彼だが、私が惹かれるのはむしろ、沖縄・久高島の御嶽(うたき)で「何もないことの目眩」に打たれた岡本である。1972年の『沖縄文化論 忘れられた日本』で、彼はこう書いている。

「この神聖な地域は、礼拝所も建っていなければ、神体も偶像も何もない。森の中のちょっとした、何でもない空き地。そこに、うっかりすると見過ごしてしまう粗末な小さな四角の切石が置いてあるだけ。その何もないということの素晴らしさに私は驚嘆した。」

本書の副題は「忘れられた日本」だ。その命名は本土からのコロニアルな視線にも思える。御嶽は、日本の古層でも、失われた本来性の保管庫でもない。それはその土地とそこに生きる人々に固く結びついた、生きた聖地である。駆け足で論じるのは困難なテーマだ。それでも私が岡本を通じて受け取ったのは、ただ一点——礼拝所も偶像もない空き地が聖地でありうるという、不在であることの形式である。

本作において、国旗は一度に消えるのではない。まず画面から眼へ移り、誰にも共有されないまま肉体の内部から消える。青い円が消えたあと、その中心にあった小さな円は三つに分かれ、やがて三つの句点「。」になる。これは国旗ではない。これは太陽ではない。これは爆発でもない。あなたは何度でも繰り返すことができる。最初にあったのはイメージであり、最後に残るのは言語である。

あなただけが知覚する青い円は、有体物だろうか。誰にも見せることができず、押収も、展示も、売買も、したがって損壊もできない。そして数十秒のうちに、誰の許可も求めず、本人の意思にすら抗って消えていく。この作品が扱えるのは、そこまでである。

ChatGPT 5.6 Solによって生成されたイメージ画像

参考文献・資料

  1. 「国旗及び国歌に関する法律」
  2. 「国旗の損壊等の処罰に関する法律案」
  3. 自由民主党「国旗損壊罪を新設 法案を了承」
  4. 鹿児島県「日の丸 発祥の地」
  5. 沖縄県公文書館「日本復帰への道」
  6. 沖縄県公文書館「オリンピック東京大会沖縄聖火リレー」
  7. 外務省「こんな時、パスポートQ&A」
  8. 岡本太郎『ヴィジュアル版 沖縄文化論 忘れられた日本 』中公文庫、2024年
  9. 粉川哲夫『電子国家と天皇制』河出書房新社、1986年。
  10. オノ・ヨーコ『グレープフルーツ・ジュース』講談社文庫、1998年。
  11. ジョルジュ・バタイユ『ドキュマン』江澤健一郎訳、河出文庫、2014年。