原料状態の孤独を、この(その)親指の腐敗に特殊化する
Block House
本展の会場となるBLOCK HOUSEは2016年にキュレーション展『iphone mural (iPhoneの洞窟壁画)』が開催された場所でもあり、布施にとってゆかりある会場です。
この展覧会では「腐った親指」がコンセプトに設定されています。このコンセプトは先日の美術手帖芸術評論募集に入選した『新しい孤独』(布施琳太郎,2019年)の終盤で示された「触覚的変質」に対する実践的なアンサーとして用意されたものです。今回布施は「腐った親指」を原理として、見ることと歩行を解体した上で攪拌し、交叉配列します。それは「恋愛」——キリスト教と芸術が分離して以降の社会において「奇蹟」を置換する形で社会に挿入されたもの——それ自体を現象させるための配列です。
ステートメント
芸術が宗教から分離されたとき、芸術は供養におけるおぞましさを内包しはじめた。つまり対象の切断と解体である。一世紀ほど前、芸術は視覚的な娯楽の位置を退き、現実への侵攻を開始した。
しかし芸術家による対象の切断と解体——あるいは拡大/縮小——は、今日の社会においてもリアルで有効な手立てだろうか?いや、違う。それはもはや新しい視触覚的快楽、つまりは単なる娯楽の位置に後退した。その限界は表象の失効という形で芸術家を危機に追いやっている。描くべきものが絶滅した荒野に画家は立ち尽くしている。
iPhoneのタッチパネルが動作しなくなるまで「腐った親指」。それが僕の考える可能性であり、この展覧会のコンセプトだ。出会えるはずの出会いが内側から破裂し、僕と君のプロトコルは破滅的な現在を迎えた。この(その)親指が腐っているから。ここで問題しているのは右手——あるいは左手の親指——だけでなく、この両足の親指の腐敗である。
僕の親指が、僕の歩行を可能にし、僕の眼差しを代替する——いや、正確には「していた」。昨日から表象が破綻している。すべてが手の届く範囲に現象している。僕の絵筆は対象を切断することも解体することもできなくなった。昨日より前のことが思い出せない/だけど思い出したい。
僕は、僕の個展を、僕の「腐った親指」を介した1つの出会いに奉仕させる。それは恋ではなく母との再会だった(ような気がする)。愛しているという事実 と「愛している」と言葉にすることの不連続——つまりは原料状態の孤独。それを僕が(あなたが)形態化する。
歴史的な必然性によっては語れないことがある。過去を書き換えることが当たり前になったとき、その語れなさが1つの可能性になった。そうした低次唯物論の美術史――あるいはジョルジュ・バタイユが記したかった脱観念的なエロティシズムの歴史――の先端に位置するものとして、僕はこの展覧会を実行する。
会期:2019年8月4日-8月18日
会場:BLOCK HOUSE B1F
助成:アーツコミッション・ヨコハマ
