布施琳太郎
4、美術館建築における太陽の運動について(会場に掲示した制作ノートより改変)
国立西洋美術館の〈本館〉において人間の鑑賞者は、ピロティを通じて、建築中央から二階へと移動して出口へと螺旋状に鑑賞する。それが基本的な動線だ。しかし、その上で、国立西洋美術館における太陽の運動を、ひとつの視点=移動する目だと考えることができる。
国立西洋美術館の〈本館〉は当初、規則的な無限増築と共にあることを想定されていたが未遂に終わった。それは現在コレクション展に用いられている展示室(本館)の動線を外向きに増築延長することで、オウムガイのように螺旋状に拡大成長させる計画だ。
だが調査を続けるなかで別の可能性を発見した。それは太陽を重要な光源としてコルビュジエが〈本館〉が設計したことだ。太陽は卍型の採光窓を通じて分割されながら上方から降り注ぎ、館内で反射する。もしも人間ではなく太陽光を観測主体にすることができるなら、一本道の螺旋状の展示動線をまったく別のかたちへと美術館建築を再組織することができる。国立西洋美術館は6350mm四方の正方形(6×6=36個)をグリッド状に組み合わせて設計されており、人間は中心から二階に侵入して外側へと螺旋状に移動する。これに対して太陽光は上方からグリッド内へと侵入しつつ分散するのだ。
つまり展示作品である《骰子美術館計画》は、人間と太陽の異なる鑑賞動線を交配しながら表現したものである。観測主体を相互に変換しながら、映像や詩によるインスタレーションとして提示すること。そうして美術館建築の「かたち」を変えることが本作のねらいだ。観測主体の変換は、バーチャル・ミュージアムの考えに則って実現可能であり、その光景の制作は芸術表現としてなされるべきだと僕は考える。それは今回、骰子(さいころ)の持つ「正方形の組み合わせ」と「乱数発生装置」の二つの性質において表現される。骰子とは漢文訓読における返り点やヲコト点をランダムに打つようなものである。
5、訓読による建築の二重化(書き下ろし、制作後に執筆)
こうした発想をしたのは、弟子の前川國男による〈新館〉と〈企画展示室〉の設計・増設が、コルビュジエによる「無限成長」という理念から逸脱しながら、既にあるかたちの後方と下方に付け加えるようになされたことに由来する。増設によってコルビュジエの作品の建築的プロポーションは直接的な変更を被ることはない。しかし建築的調和は影響を受ける。対称性を持った国立西洋美術館の調和は、後付けされた形態によって異なる全体性でもって、私たちの前に現れる。
これはアーティストの直感だが、前川による増設は、太安万侶が『古事記』を完成させるにあたって行った言語操作と似ている。その直感に基づいて制作された《骰子美術館計画》への事後的な注釈として、以下の文章は書かれている。
『古事記』の序文によれば和銅五年(西暦712年)に完成したという『古事記』は、それまで書き言葉(文字文化)を持たなかった日本ではじめてつくられた書籍とされる。そこでは海の向こうから流入した漢文で日本語を表記するために、特殊な操作がなされた。現在の私たちが訓読と呼ぶ技術である。
まず例え話をしたい。訓読が翻訳ではないことを示すためだ。日本語で「私はあなたを愛している。」という発話を、英語にするとしたら「I love you.」になる。しかし「I love you.」を日本語に戻そうとすると「私はあなたを愛してる。」と同時に「私があなたを愛している。」というニュアンスの異なる二文が生成されてしまう。『古事記』の制作とは異国語を用いて自分たちの用いる言語を表記するための書式をつくる試みだった。つまりそれは日本語の話し言葉を漢文へと翻訳して記す試みではない。
当時、太安万侶は漢文に対して漢文を用いて日本語を記述することの困難を感じた。まず助詞・助動詞が重要な働きをする日本語に対して、漢文にはそれがない。そうなると先ほど述べたような「は」と「が」といったニュアンスは消滅する。そこで最終的に安万侶は「音」と「訓」の二種類の表記を検討した上で、それらを混在させることとした。
まず「音」とは、一字一音として、それぞれの漢字を万葉仮名(音の表現)として用いる試みだ(「多多志」と書くことで「たたし」と読むような方法)。だがそれだけでは、句読点も打たずにすべてを平仮名で書くようなもので、全体として長く冗長になるばかりか意味の区切りや文節を見出すことも困難になる。非効率的だ。これに対して「訓」は漢字それぞれが意味を持つ文字であることもあって、意味伝達に長けている。しかし日本語における助詞、助動詞が漢文にはない。そのため基本的な意味伝達ができても、微妙なニュアンスを表現することは難しい。だが「訓」を基礎にすることで、効率的な意味伝達ができるのも事実だ。
そうした「音読み」「訓読み」それぞれの方法的な限界を見据えた上で、太安万侶は「訓」を主体としながら「全訓」と「音訓交用」を併用することを選んだ。その上で意味伝達の正確さのために「注」も付すという。それが『古事記』の序文に書かれたことである。だがその制作に内在する政治性を消し去ることはできない。『古事記』とは皇室を中心とする日本国の起源神話でもあるのだ。律令制の成立と関係付けながら、日本文学者の神野志隆光は、以下のように述べている。
天皇の世界としての「日本」の完成は、[著者注:中国からの]制度の輸入だけでは不可能だ。制度とともに、自分たちの世界を内側から支えることなしには果たされない。文字の世界のそのアイデンティティーの確立は文字のレベルでもとめられるのである。[中略]日本語文であり、したがって訓読されるべき『古事記』と、それに対して、あくまで中国語文(漢文)である『日本書紀』が並立することは、文字の世界のありよう——漢文から日本語文にわたる広がりによってありえている文字の世界——と対応する。
そのような文字による、天皇の世界の確証を果たそうとするのが『古事記』の課題であり、実際安万呂がそれをどう引き受けたかということとして、『古事記』の成立は正当に定位される(*1)
およそ1300年前の『古事記』の成立。そのとき律令国家としての日本が、国家制度の成立のためにこそ、その制度を記述するための文字文化(日本語)を要請した。制度はそれだけで存在することはできない。だがこの国において制度は輸入される(されてきた)。明治の近代化・西洋化においても同じことが生じた。だがそうした輸入のとき、制度を記述する文の書式は直接に輸入できない。なぜなら「自分たちの世界を内側から支える」ような「文字による世界の確証の営み」がなければ国家は成り立たないからだ。
話が飛ぶが、日本において美術館をはじめとしたミュージアムは、国家の近代化を制度的に推進するための技術のひとつとして輸入された。さらに工部省——鉄道や造船、鉱山、製鉄、電信、土木などの近代産業の技術の導入によって殖産興業を推進した——は、展示施設に先立って、日本最初の美術教育機関である工部美術学校を1876年に設置している。それは絵画と彫刻という西洋美術を習得するための学校だった。当初、美術とは、殖産興業による富国のための実用技術として捉えられていたのである。つまり美術それ自体が、制度を、「自分たちの世界を内側から支えるような世界の確証の営み」として期待されていたのだといえる。もちろん美術は、直接に文ではない。むしろそれこそが制度であった。
制度としての美術とは——「美術」という語のもとに在来の絵画や彫刻などの制作技術が統合され、また美術の在り方が博覧会、博物館[ミュージアム]、学校などを通じて体系化され、規範化され、一般化されることで、美術と非美術の境界が設定され、さらに、かかる規範への適応如何が制作物の評価を決し、さらには、そのような規範が公認され、自発的に遵守され、反復され、伝承され、起源が忘却され、ついには規範の内面化が行われるといいった事態=様態、これをさす(*2)。
話を戻そう。文芸批評家の山城むつみは『文学のプログラム』において、精神分析家のジャック・ラカンが(実際に日本語を学んだことに触れつつ)『エクリ』の序文「日本の読者に向けて」で日本語を高く評価しながら「本当に語る人間のためには、音読みは訓読みを注釈するのに十分です」と述べ、さらに日本の読者は本書を読む必要がないと言い放ったことから日本語の構造について述べている。
そこではサンプルとして「よむ」という音が「読む」(read)と「詠む」(write)という相反する書き、意味を持つことが語られる。しかし「読む」と「詠む」は同音であるばかりか、同源の言葉であるらしい。重要なことは、これらが同じ起源を持つことではなく、同じ起源を持つ言葉が異なる意味を持つことだ。そのとき話し言葉と書き言葉は、互い違いに意識に昇りながら、他方が無意識の層を形成する。それが「音読みは訓読みを注釈する」だ。
固有の文字体系を持っておらず、中国語の体系の内部でしか文字を使えなかった上代の日本人が、中国語ではなく日本語を、書いて伝達したいと思いこれを試みたとしても、彼らはそれを中文としてしか表現しえなかった。しかし、それは形においては中文であっても、実質的には和文と化している。とはいえ、書き手の意図を知りえない読み手にとっては、それが中文であるのか和文であるのかは外見からは区別できない。[中略]この「よみ」の特定に成功しない限り、和文を「書く」という行為は未だ遂行されたことにはならない。訓読はこの段階から考案されたプログラムである。つまり中文=和文から一義的な「よみ」がもたらされるように工夫された規則体系[著者注:こそが漢文訓読]なのである。(*2)
日本語は、『古事記』における音訓併用によって急速に整備されながら、外来語である漢文(書き言葉)を日本語(話し言葉)へと包摂することで成立した。それは現在の日本語にまで地続きのことである。
しかし朝鮮半島(などの漢字文化圏)では、当初、日本のように漢文訓読の文化があったにもかかわらず、現在はハングルに統一されている。批評家の柄谷行人は『日本精神分析』で、その理由を日本語と朝鮮語の母音と子音のバリエーションの多少と大陸との海による隔たりの有無に理由を求めながら、日本語論を次のようにまとめた。
時枝[誠記]は、西洋言語学の日本語への機械的適用に反対して、国学者本居宣長や鈴木朖の日本語論を取り上げ、指示的な意味内容をもった「詞」と、助詞・助動詞などのように指示的な意味内容をもたないが、ある情動的な価値を表出する「辞」を区別しました。
国学者は、テニヲハ(辞)を、玉(詞)をつなぐ緒にたとえました。すなわち、それは、インド・ヨーロッパ語で繋辞 copula と呼ばれるものに対応するものです。時枝は国学者による区別にもとづき、「詞」=客体的表現と「辞」=主体的表現と解釈しました。そして、西洋語の文では、主語と述語を、繋辞としての’be’が天秤のように支えているのに対して、日本語の文では、辞=主体的表現が詞=客体的表現を風呂敷のように包みこむかたちで統合されていると、考えたわけです。(*3)
そうした話し言葉と書き言葉、音と訓、辞と詞といった二重のシステムの関わり合いにおいて、日本語を用いる人は、すでにつねに精神分析学的構造のなかに置かれることになる。
そこでラカンは、日本語話者は万年筆さえあれば精神分析(無意識の探求)ができるのに対して、フランス人は「文体」(style)が必要なのだと、『エクリ』の序文で述べている。それは「音読みによる訓読みの注釈」が、そのまま言語に潜在する精神=無意識の解析につながるからだ。
ここで私は、精神分析学や過去の文芸批評、言語学によって構造化された日本語論を用いて、自分が《骰子美術館計画》で実践的に行った操作と形式的に同形である操作として、『古事記』をはじめとした音と訓の相互の注釈を捉えている。それによって美術館建築のなかに人間ではなく太陽の視点を導入しながら、詩と映像をつくり、これまでにありえなかった美術館建築のかたちを創出するための方法をつくることを考えている。
《骰子美術館計画》を制作するにあたって思考したことの一部をここに記した。あと二点語るべきことはある。それは合成音声と肉声の重ね合わせによる朗読の問題、もうひとつは楕円の問題だ。これについては改めて論じたいと思うが、端的に述べて、正円と異なり二つの焦点(軸)を持つ正楕円を二つ並べて、そこに映像や詩、朗読を上映することは、デュシャンにおける便器の「向き」の変更とコルビュジエによる機能的な身体拡張=建築マケットとしての便器の二つを、今日における主体の問題として提示するための形式だった。
*1 神野志隆光『古事記とはなにか:天皇の世界の物語』2013年、講談社学術文庫、44頁。
*2 北澤憲昭『眼の神殿——「美術」受容史ノート』ちくま学芸文庫、2020年、114頁。同124頁。
*3 山城むつみ『文学のプログラム』2009年、講談社文芸文庫、197-198頁。
*4 柄谷行人『日本精神分析』2007年、講談社学術文庫、108頁。
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布施琳太郎 Rintaro Fuse
アーティスト。1994年生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、社会を成立させる日本語やプログラム言語、会話などを操作的に生成し直すことで、映像作品やウェブサイト、絵画などの制作、詩や批評の執筆、展覧会のキュレーションなどを行っている。