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美術館の書式解剖〈1〉

布施琳太郎

美術館はまだ生まれたばかりだ。他の時代にはまったくなかった。美術館の首尾一貫していない傾向にモデルなどなく、あるのはただそれぞれの視点だけである。真の美術館とはすべてを含むものである。

——ル・コルビュジエ(*1)

立体派(キュビズム)や未来派の奇想は、多様かつ野生的なものではあるが、先史時代の文字に隠れている神秘的な規則性を再現することは滅多にない。そして、これら図案の大部分は、確かに何らかの文字であるように見えたのだ。

——H・P・ラヴクラフト「クトゥルーの呼び声」(*2)

 国立西洋美術館におけるはじめての現代美術を中心とした展覧会である本展は、副題に「現代美術家たちへの問いかけ」と付されている。この問いにおいて私は、自らの作品制作の主題として、ル・コルビュジエを選択した。
 ル・コルビュジエは国立西洋美術館の基礎設計をつとめた建築家である。1959年に竣工された本館は2016年に「ル・コルビュジエの建築作品ー近代建築運動への顕著な貢献ー」のひとつとして世界遺産に登録された。全世界に点在する彼の作品群がまとめて世界遺産となったのである。

 彼は住宅や宗教施設、美術館などの建築設計だけでなく絵画や彫刻、タペストリーなどの造形表現、さらにその制作理論のモデル化を生涯にわたって行った。
 ピロティや屋上庭園、自由な平面、自由な立面、水平連続窓によって構成された「近代建築の五原則」、最小限の柱で床面を支えることによって自由で立体的な構成を可能にした「ドミノシステム」、そして人間の身体比率を建築設計の単位として拡張する「モデュロール」、さらには数多くの建築家や批評家を巻き込みながら展開したCIAM(近代建築国際会議)の中核に関わるなど、彼の理論的仕事は今日に至るまで大きな影響力を持っている。私たちの生活する住居もまた、コルビュジエによって展開された一連の理論的な議論がなければまったく異なるものになっていただろう。
 私がル・コルビュジエを選んだ理由は、現代社会の地獄——人々の分断と連帯の過剰化——を正しく反映し続ける現代美術において、制度批判的あるいは歴史検証的な言説としての展示芸術=現代美術の実践ではなく、美術館建築のかたちの具体性において、別の美術館建築を構想して提示する芸術の詩的実践に公共的な価値があると考えたためだ。

 本展の展示作品において私は、引用の政治性に安心することなく、無数の人々が生きている社会のなかで、その過去と未来をテーブルの上に置くことを可能にするような設計図(ブループリント)を描くことを目指している。
 その上で書かれた、この小文は作品解説ではない。私が作品制作をする上で得たコルビュジエについての資料を再構成することで、美術館建築の公共性を再考する試みである。

1、プロモーター、ル・コルビュジエのプロフィール

 ル・コルビュジエは「近代建築」と呼ばれる20世紀的な産業の中心的人物だった。彼は、理論と実践の両方からその後の文化の枠組みを設計(デザイン)したのである。しかし「ル・コルビュジエ」の有名性は、同時代の他の建築家に比べて彼が卓越した技能を持っていたから担保されているわけではない。むしろ彼は、実作者として以上にプロモーターとして優秀だった。
 1887年10月6日にル・コルビュジエは生まれた。出生時はシャルル=エデゥアール・ジャンヌレという名前であり、時計産業の街として栄えたスイスのヌーシャテル州ラ・ショー=ド=フォンで生をうけた。こうした出自において自らのことを「南フランス人」と表現する彼は、自分が移民の末裔であることを知っていた。先祖たちは北フランス人による虐殺を逃れて14世紀半ばにこの地に移住してきたのである。農作に向かない厳寒の地に住む人々は自らの技術を生かして産業を興した。彼ら、彼女らは「製品自体、そして製造過程を要素に分解し、標準化をおこない、工程を分業化、専門化することにより時計産業を「再設計」した」のである(*3)。そうした標準化と再設計は後の彼の活動においても見出される手法だ。

彼ら[著者註:コルビュジエの先祖たち]は理論的であると同時に、社会主義者、改革論者、楽天主義者であり、批判精神に富んでいた。商業活動を重んじ、聖像崇拝を嫌い、キリスト教会の権威や聖書にたいしても疑問を投げかけた。(*4)


 大人になって出生の地を飛び出して各地を旅したコルビュジエは、最終的にフランスを活動の中心地とした。しかし自らの出生地の気風を正しく引き受けてもいる。
 1920年、コルビュジエは、一歳年上の画家アメデ・オザンファンと共に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(新精神)を創刊した。そこでは絵画や彫刻などの近代美術から文学、音楽、建築までが横断的に紹介され、論じられた。それまで本名(ジャンヌレ)で活動してきた彼は、複数の書き手がいるように見せるためなのか、建築や絵画などについて執筆するためのペンネームとして「ル・コルビュジエ」と名乗ることになる。言ってしまえば、広告的戦力のために誕生したのがル・コルビュジエなのだと私は捉えている。実際、彼は工業製品のカタログや産業パンフレット、新聞の切り抜きなどの広告物をおびただしい量集めていたという。

ル・コルビュジエの「レスプリ・ヌーヴォー」での議論は、イメージとテキストの重ね合わせに大きく依存している。伝統的な本におけるイメージの「表象的」な使用——そこではイメージはテキストに従属し、一致している——と違って、ル・コルビュジエの議論は、これら二つの構成要素の決して融合することのない衝突という観点から理解されるだろう。こうした革新的な本の制作方法には、広告テクニックの影響が看取できる。(*5)


 建築史家のビアトリス・コロミーナは、そう語る。そしてコルビュジエの建築を「マシン・エイジ」(機械時代)との関連で考えた研究は数多くあったが、近代のコミュニケーション、つまり消費社会の文化との関連で考えたものは少なかったと指摘する。コロミーナの指摘は1990年代のことである。彼女いわく「近代メディアとは軍事テクノロジーである」、それは「速度を誇る乗り物、自動車や航空機といった第一次世界大戦の技術革命から現れたものと同じように、戦後における技術革命から発達してきたものだ。メディアは戦争のテクノロジーや道具の一部として発展したものなのである」(*6)。そうした「速度」や「機械」を実際に芸術の主題としたのはイタリアの未来派だが、彼ら、彼女らは消費社会や産業化のプロセスには注目しなかったという。未来派に対して、コルビュジエを含む『レスプリ・ヌーヴォー』の同人たちの同時代の技術的生産への強い関心は、近代メディア=軍事テクノロジーを可能にするメカニズムとしての宣伝やマスメディアの効果、つまり広告に向けられたものであった。「一方ではあざやかなイメージを使って読者の注意を惹き、住宅の大量生産という自分が訴えているコンセプトへとそれを差し向け、他方で彼が選んだイメージには、軍事テクノロジーの無意識的な馴到があったのである」(*7)。
 さらにコルビュジエは、都市で流通するカタログから集めたイメージを自らの雑誌に並べ、あるいはレビューとして実際に効果を持つ宣伝を掲載した後で、その誌面を商品生産者に送りつけた。そして企業がその宣伝から受ける利益について支払いを請求したのである(*8)。つまり彼は生涯にわたって建築家だったのだ。自らの制作物が現実の経済の内部でしか成立しないことを理解した上で、時として、クライアントと作家の交渉の契機を逆転させて利益を得ることで自らの理想を実現しようとしたのである。現実と理想を折り合わせることができる設計者(デザイナー)という点で、彼は建築家なのだ。たんに造形的な新規性、驚きを設計するだけでなく、それが現実化するために必要な交渉、予算作り、人々の組織化を行うことは建築家にとって最も重要な技能である。

 戦後日本の建築界では、単一の建築設計を超え出た大規模な都市計画を構想する「メタボリズム・グループ」が大きな影響力を持った。その師匠筋には1970年の大阪万博の大屋根、原爆ドームを含む広島平和記念公園、代々木第一体育館、東京都庁舎第一本庁舎などを手がけた丹下健三がいる。彼が導き出す非現実的なまでのプランを現実のものにするためには、優秀な渉外役で都市プランナー、建築家の浅田孝の存在が欠かせなかった。浅田は、南極昭和基地の設計なども行った人物であり、厳密に規格化された資材を組み合わせるプレハブ方式を開発した。建築家とは、たんに造形を美的に突き詰めるだけでなく、現実の社会的な制約と環境的な変化のなかで機能する物理的枠組みをつくる仕事なのだということを教えてくれる一例だ。そしてコルビュジエは、まさにそうした地平で仕事をしていた(時として、その思想は非現実的なまでにユートピア的になるのだが)。

2、人間の軸

 「レスプリ・ヌーヴォー」の誌面に掲載されたテクストをまとめることで出版された著作のひとつ『建築をめざして』における「住宅は住むための機械である」という宣言はセンセーショナルであり、挑発的だった。彼は標準化され、工業化された建築を目指したのだ。そこではひとつの理想像としてパルテノン神殿などの古代ギリシャの建築が挙げられている。彼によれば、それは普遍化された人間の肉体に内在する軸線との調和によってつくられた、機能的な建築だ。

もしもカヌーや、楽器や、タービンが経験と計算の結果「組織された」現象の如く見えるとしたら、いいかえればある命を持つかのようなら、それは軸と並行していることだ[著者註:ママ]。そこから調和についての定義としてこういえよう。人間本来の軸と一致した瞬間、それはとりもなおさず宇宙の法則と一致する契機であり——一般的な秩序の軸に還元される時だと。(*9)


 だからなのだろう。彼は便器やビデなどの衛生器具に執着する(*10)。それらはまさに私たちの内臓、消化器官を機能的に延長する機械である。「住むための機械」とは、私たちの身体の拡張を意味するのだ。そうした人間の軸との平行において、彼は、調和を考える。実際、彼はビデのイメージを、雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』における美術館についての自身の論考の冒頭に置いている。

 奇遇にも、レスプリ・ヌーヴォーの創刊に少しだけ先立つ1917年、マルセル・デュシャンが男性用小便器に『泉』というタイトルを与えた。現代美術の幕開けを象徴するマスターピースとして入門書などで扱われる本作は、最初ニューヨークのアンデンパンダン展(無審査の公募展)で発表された。しかし便器とは大量生産された、取るに足りない世俗的な衛生器具だ。だが展示された便器は急速に神聖化されていく。今日のアートファンたちは、その「実物」を見るために美術館に駆け込む(レプリカしかないのに)。そんなデュシャンの便器には対立する二重の操作を見ることができる。
 まず美術館における展示行為は、かつての宗教的道具たちの呪術的な礼拝価値を奪って「美術作品」に変換してしまうという偶像破壊的な効果を持つ。しかしそうした破壊的環境において偶像=便器を愛好する人々を創出する。こうした偶像破壊と偶像崇拝の二重性こそが、宗教から切り離された現代美術の神聖さを準備した(*11)。そのために彼は、便器に『泉』(Fountain、つまり噴水)という言葉を、詩的な操作として与えたのである。つまり男性器から流れ出す尿を受け止める白い器に対して、上方へと水を吹き出す「噴水」という言葉=イメージを与えることで——その事物に内在する「向き」が変更されることで——彼の操作の二重性は完璧なものとなる。

 しかしコルビュジエにとって便器の向きは、「人間本来の軸」は、変更されるべきではない。彼はデュシャンとは異なる視点で衛生器具を捉える。まずコルビュジエにとって、便器をはじめとした衛生器具それ自体は芸術作品ではない。やはりそれは機能的なオブジェなのだ。それに対して現代美術を理解するための教材として歴史の起点に置かれるデュシャンの便器は、機能的であるというより、詩的な操作として白く佇んでいる。

 コルビュジエは、衛生器具のイメージを用いて、芸術について語った。ビデの画像を視覚的な導入として美術館について語った。彼にとって、便器やビデといった衛生器具は、現代美術的な二重の操作を実行する表現メディアとしてあるのではない。そうではなく、私たちの身体を機能的に拡張する建築の、理想的なマケット(模型)として存在しているのだ。すべての計画が実現できるわけではない建築家にとって、未完のプロジェクトを提示して、人々に伝えるための手段を持つことは重要だ。実際、彼は、パリの街並みを更地にした上で機能的に設計し直す都市計画「輝く都市」において、その思想をボードゲームによって伝えることを考えていたという。建築という営みが都市における思想的課題であることを避けることができない限り、そうした建築思想のマケットの制作は、建築家にとって最も重要な仕事のひとつである。

 ここで踏まえるべきは、デュシャンとコルビュジェの異なる語りだ。
 デュシャンは衛生器具〈によって〉制度と芸術について語っているのだが、コルビュジエは衛生器具〈としての〉建築と芸術について語っている。ここにこそ20世紀における芸術の二領域、つまり展示芸術(現代美術)と展示設計(建築)の差異がある。そしてこの差異は、それぞれの領域における広告技術や軍事テクノロジーの他領域への転用の仕方の差異として、そのまま露出するだろう。なぜ大阪の夢州で開催される「2025年日本国際博覧会」において多数の建築家が動員されていながら、現代美術のアーティストは動員されないのか。ただイベント用のハコが欲しいだけなら、それぞれに名前を持つ建築家など不要である。だが建築家の存在は要請されている。言ってしまえば、軍事テクノロジーを反映しながら、そこに戦場の臭いを感じさせない職人が要請されているのだ。これはメディアアートなどにも寄せられることのある期待である。だが現代美術は、操作対象の「向き」を変えるとしても、その記憶を温存したまま提示する。どちらが偉いという問題ではない。20世紀における操作、あるいは語りは二種類あるということだ。

3、美術館の光

 実のところ、コルビュジエが戦前から構想しながら、なかなか実際に建設することができなかったのが美術館建築である。1929年の「ムンダネウム計画」における世界美術館の実現失敗以降、彼は生涯をかけて美術館建築のアイデアを練り続けた。国立西洋美術館は、それから30年近い月日が過ぎてから、晩年のコルビュジエがようやく手がけた美術館のひとつである(他にはインドのチャンディガールとアーメダバードに彼の美術館があり、ほぼ同時期に建設された)。
 そして国立西洋美術館が世界遺産に登録された際、ユネスコから「当初の前庭の設計意図が一部失われている」と指摘がなされた。そこで2020年10月19日から2022年4月8日までの約一年半にわたって行われた改装工事が行われた(*12)。

 しかし完成後の国立西洋美術館に手が加えられたのははじめてのことではない。1990年代には阪神・淡路大震災を機に、国立西洋美術館を免震構造に変えるための改修が計画された(*13)。この評議会のメンバーだった建築家の磯崎新は、建築とって保存とは何か、そして現在の国立西洋美術館の作者をル・コルビュジエと見做して良いのか、という二点を建築雑誌「GA」のインタビューで問うた。ふたつの指摘を蝶番するのはシンプルな提案である。

せっかくやるなら、一度壊してオリジナルの図面をもう一度再現することにしたらどうかと提案したんです。(*14)


 磯崎は、改修と再建のどちらを選んでも必要な予算は同じだと述べる。しかし「今日の保存の概念からするとまったく理屈に合わないこと」だったということで、彼の提案は退けられた。
 もちろん、ふざけてそんなことを言ったのではない。彼は、コルビュジエが地震も想定せず、計算もせずにプロポーション(建築的な比率)だけを考えていたのではないかと考える。機能的であること、つまり環境と建築の関係は、気候やプレートテクトニクスなども想定しなければならないのだ。さらに事実として、実際の設計は前川國男、坂倉準三、吉阪隆正という三名の弟子によってなされた。コルビュジエが現地を訪れたのは一度だけであり、日本滞在も短い(もちろん年齢の問題もあるだろうが)。

 加えて磯崎は、コルビュジエによるインドの美術館と比べて、国立西洋美術館は「あまりにちぢこまって見えます」と述べている。ちぢこまって見えるのはただの印象ではない。インドの二つの美術館と国立西洋美術館は基本的に同じような構成だが、設計の基礎となる柱同士のスパン(距離)が異なるのだ。
 インドの美術館における正方形のサイズと数は、1931年に彼が提案したパリの美術館案と同じものである(こちらは実際には建設されていない)。パリの美術館案は、後年の美術館構想のプロトタイプとなるものだ。プロトタイプもまた正方形の組み合わせによって作られたもので、そうであるが故に外向きに増築、つまり無限成長していくことができる。
 それらの実施図面を見比べると、一階がピロティになっており、建築の中央部に吹き抜けがあって、美術館の中心から二階展示室へと移動して螺旋状に移動するという動線は共通している。また俯瞰して見た際に、正方形を組み合わせて美術館の全体が設計されているのも同じだ。ここで言う正方形とは、四つの頂点部を柱とする建築の基礎単位のことである。
 しかしその正方形のサイズと数が違うのだ。プロトタイプおよびインドの美術館は、正方形の、つまり柱同士のスパンが7メートルなのだが、国立西洋美術館のスパンは6.35メートルしかない。要するに、文字通り「ちぢこまっている」。さらにインドは7メートル四方の正方形が7×7個ずつ敷き詰められることによって美術館全体が大きな正方形を形作っているのだが、上野は6×6個しかない。そのため、中央部の吹き抜け(3×3の正方形)に対して周囲の動線=展示室が部分的に狭められているのだ(2スパンと1スパンの展示空間が共存している)。磯崎の指摘は、こうした図面上の縮小へと意識を向けることを促してくれるものである。

 こうした正方形の組み合わせによる無限成長。それはコルビュジエの考える美術館を特徴づけるアイデアである。
 まず1931年のプロトタイプにおいても、インドや上野の美術館と同じく、中央に吹き抜けを作ることで美術館中央から鑑賞動線がはじまる。3スパン四方の空間を中央のホールとして階下=ピロティからの動線としつつ、その周囲に2スパンずつの幅の展示室を設けること(3+2+2=7スパン四方の美術館)を彼は構想した。
 そのため動線は中央から外に向かって螺旋状に歩くかたちになる。そしてそうであるが故に、展示室を外向きに増築していくことができるのだ。7メートル四方のモジュールを、建築の外側にひとつずつ展示室として追加することで、螺旋状の順路が無限に増えることこそ「無限成長美術館」というコルビュジエのアイデアの本質である。彼によると「絵画の寄付者は、その絵画が展示されるであろう壁(パーティション)、柱2本、まぐさ2本、それに5〜6 本の梁、そして数平米のパーティションを寄付する」。さらに「絵画を展示する部屋に寄付者の名がつけられる」のだという(*12)。無限成長美術館とは、美術館の収蔵庫と展示室の空間的制約を経済的に解決しつつ、美術館建築のあり方を更新しようとするラディカルな挑戦だった。

 建築中央から動線が開始する無限成長美術館というアイデアは、彼の建築についての思想を端的に示している。つまりそこには「内部はあるが外部はない」。ファサードの消去によって特徴づけられるコルビュジエの特殊な内部性について、先ほども引用したコロミーナが論じている。彼女が語るのは、私的空間と公共的空間の関係の変容としての、言い換えるならテレビや新聞、電話、ラジオなどのコミュニケーションのテクノロジーの等価物としての近代建築である。「近代的な目は移動する。ル・コルビュジエの建築における視覚は、常に移動と結びついている」(*17)。移動する目とは、住宅における窓のことである。近代建築の横長の巨大で透明な水平連続窓は不透明な壁の位置を乗っ取ったのだ。そして窓は壁を映像化する。つまり「光の壁」としての窓によって、建築をコミュニケーションのメディアにする……それが彼女の近代建築理解だ。光の壁というモチーフは、住宅だけでなく美術館にも見出すことができる。

 そしてインドの二館ではなく国立西洋美術館においてのみ達成されたコルビュジエの夢は特殊な採光システムだった。 
 コルビュジエは螺旋状の基本動線に対して、卍(スバスチカ)状に自然光と人工光を組み合わせて美術館内を照らすことを重視した。自然光を重要な光源とみなすのは、コルビュジエにおいては住宅でも顕著な考えであり、サヴォワ邸などでも用いられてきた。ピロティを抜けて足を運んでみると、国立西洋美術館中央の吹き抜け(19世紀ホール)では、屋上から太陽の光が注ぐのを現在も確認することができる。上方からの光によって照らされた空間は、ロンシャン礼拝堂などのコルビュジエの他の作品にも見られる建築的特殊性だ。
 コルビュジエにとっての光とは、不変ではなく、太陽の運動と共に変化するものだった。だから美術館という窓が欠如した建築においても、太陽の光を用いれば、その壁を映像とすることができる。そうして自然における運動性を建築へと取り入れることは、そのまま同時代のメディア環境による内部と外部という対立の脱構築の等価物なのだ。
 そして「外部のない内部」という点で、コルビュジエがデュシャンとは異なる戦略を取っていたことが明らかになる。デュシャンは自らの作品の複製物をトランクのなかに閉じ込めた。だがコルビュジエの建築は密閉されておらず、クラインの壺のように外部が内部に露出する。人々はそうした空間を歩行し、移動していく。そうした移動こそが彼の美術館建築における動線設計を基礎付けるものであり、私的であることがそのまま公共的な問題へと反転する可能性なのだ。こうして建築=美術館が歴史を体現し、表象する広告装置となるのである。

 しかしコルビュジエが当初考えていた美術館の無限成長は、一度もなされていない。インドと東京の三つの美術館の、どれにおいても、だ。もはや国立西洋美術館は、彼が考えた無限成長するような、つまり終わることのない工事と共にあるような美術館とはかけ離れた施設であるようにも思えてしまう。実用性を欠いた事物が集積しているという点で「美術館とは墓場である」という決まり文句が述べられることがあるが、コルビュジエが構想した美術館とは墓場というよりも葬儀場のような終わることのない運動の場だったのだと私は考えている。
 つまり世界遺産登録にあたっての「当初の前庭の設計意図が一部失われている」という指摘に対する「本来の設計意図が正しく伝わるように、前庭を本館開館時の姿に可能な限り戻すことといたしました」という発想自体が、国立西洋美術館の歴史的価値に反する可能性をここで指摘したい。「当初の設計意図」における「当初」は、コルビュジエの夢のなかにも、建築が完成した瞬間にも見出すことができる。しかし二つの「当初」のあいだには、建築という物理的にも経済的にも具体的な制約を抱えた枠組みにおいて大きな隔たりがあるのだ。

→  美術館の書式解剖Ⅱ




*1 ル・コルビュジエ「いまひとつの聖像、すなわち博物館」『今日の装飾芸術』前川国男訳、鹿島出版会、1996年。
*2 H・P・ラヴクラフト『クトゥルーの呼び声』森瀬繚訳、星海社、2017年、59頁。この小説はコルビュジエが活動を開始したのと同時期の1928年に書かれた。
*3 アレグザンダー・ツォニス『ル・コルビュジエ——機械とメタファーの詩学』繁昌朗訳、2007年、鹿島出版会、18頁。
*4 同書、15頁。
*5 ビアトリス・コロミーナ『マスメディアとしての近代建築——アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』松畑強訳、鹿島出版会、1996年、106頁。こうしたイメージとテクストの衝突は同じくパリで1929年から1931年にかけてジョルジュ・バタイユを中心に編集された雑誌『ドキュマン』、あるいは村上隆によって商業施設である渋谷パルコ館内でキュレーションされた2000年の展覧会「SUPER FLAT」とそのカタログにも見出すことができるが、それは機会をあらめて論じたい。
*6 同書、108頁。
*7 同書、111頁。
*8 同書、121頁。
*9 ル・コルビュジエ『建築をめざして』吉阪隆正訳、SD選書、1967年、159-160頁。
*10 ビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー『我々は人間なのか?——デザインと人間をめぐる考古学』松尾晴喜訳、ビーエヌエヌ、2017年、212-216頁。
*11 それはボリス・グロイスが次のように指摘する矛盾したプロセスによって準備されたものだ。「 [中略]十九世紀全般にわたる帝国主義的な征服と非ヨーロッパ文化の略奪によって確立されてきた美術館は、「美しいもの」として機能しうる対象物——さまざまな宗教的儀式や、権力階級の室内装飾や、個人の富の象徴としてかつて用いられていた事物——をすべて美術作品として、すなわち機能を剥奪された、自律的な、純粋なまなざしの対象物として収集し、陳列した」。ボリス・グロイス『アートパワー』 石田圭子、齋木克裕、三本松倫代、角尾宣信訳、現代企画室、2017年、77頁。
*12 『美術館の建築』国立西洋美術館(https://www.nmwa.go.jp/jp/about/building.html、最終アクセス2023年12月10日)。
*13 最終的に国立西洋美術館は、ル・コルビュジエの考えた建築の自由を維持するために「耐震」や「制震」ではなく「免震」のために免震レトロフィットが採用され、1997年に工事を終えている。「建築界全体の共通言語として免震の知が浸透していけば、コストや設備・意匠などの現在の多くの問題点はしだいに解消されていき、それは「技法」などといった特殊なものではない、透明な技術となっていく。それが、建築の進化である」。
山本想太郎「《国立西洋美術館》免震レトロフィット──免震は「技法」であるべきではない」『10+1 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険』 2004年06月、116-119頁。現在はオンラインにアーカイブされている(https://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/79/、2023年12月10日最終アクセス)。
*14 磯崎新「終わりであり、始まりである」『ル・コルビュジエ読本』2014年、GA、199頁。
*15 山名善之「ル・コルビュジエの〈無限成長美術館〉」『ル・コルビュジエと西洋美術館』(2009年、国立西洋美術館、103頁)にて紹介されていた書簡より。本節におけるコルビュジエの図面やスパンについての議論はこちらの論考に多くを負っている。
*16 ビアトリス・コロミーナ『マスメディアとしての近代建築——アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』、148頁。
*17 同書、16頁。




布施琳太郎 Rintaro Fuse
アーティスト。1994年生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、社会を成立させる日本語やプログラム言語、会話などを操作的に生成し直すことで、映像作品やウェブサイト、絵画などの制作、詩や批評の執筆、展覧会のキュレーションなどを行っている。