布施琳太郎 連続講義シリーズ第四弾

独り言の回復





この度、布施琳太郎による自主企画講義の新作『独り言の回復』を開催いたします。

これは言葉を通じて想像力を自由にするための実験です。すべての声、文が、自分ではない誰かによって聴き取られ、読まれ、さらに解釈される現代において、あらためて「独り言」という素朴すぎる行為から言葉の自由を考えることを目的としてます。布施琳太郎なりの制作論であり、現代美術に限らない多様な制作(日常的な会話から落書き、音楽制作、恋愛など)の根源を考える旅路となるでしょう。

これまでにも完全自主企画で『ラブレターの書き方』、『人間のやめ方』、『現代美術基礎』という三つの講義を行いました。総計500名近くの方々が参加してくださっており、熱心な受講者の方に恵まれてきたことを感謝しております。

とはいえ一連の講義は、布施琳太郎がすでに持っている知識や完成した思想を分かりやすく提示するものではありませんでした。

むしろリアルタイムで調べ物をしながら蓄積されていく知識によって、布施琳太郎自身が徐々に変化していくプロセスそのものを講義として展開する企画です。ここにあるのは変化なのです。その上で毎回膨大な枚数のスライドを共有するため、もちろん資料的な価値は高いと考えております。本ページ下部には講義内容についての詳細な予告があるため、ぜひ読んでみてください。

布施琳太郎『骰子美術館計画』2024年

受講者として想定しているのは、明確に「アーティストになりたい」と考えている人というより、「アーティストになりたいかもしれない」「自分はアーティストでよいのだろうか?という疑問をかかえている」「かつて何らかの領域の作り手になりたかった」ような人たちです。そのため前提知識を問わず受講して頂けたら幸いです。

そして、なにより……ひとりのアーティストがどのように思考してアイデアをかたちにするのか?を赤裸々に示すことは齢30歳になった自分が、大学機関などの外で、オルタナティブな教育として提示できる知のかたちだと考えております。「芸術は教育できない」と言う人もいますが、それでも伝えられる知はあるはずです。そもそも美術教育とは、アーティストになるための「How To」としてだけあるのではなく、美術とのかかわり方を多様化するためにあるのだと僕は考えております。

どんなモチーフを描くのか、
どんな技術を用いて制作をするのか、
どんなコンセプトで作家活動をするのか。

それは各自が自分で考えるしかないことですし、実制作のなかでこそ明らかになることでしょう。それでも、あくまで他人として、あるモチーフが選択され、コンセプトが形成されて、ステートメントが生じるプロセスがどのような時間であるのかを示すことはできます。この講義が示すのは「正解」ではなく「思考は自由である」という状態へと自らを叩き込むための跳躍です。

おそらく、そこからしかはじまらない芸術があるはずなのです。

開催概要

名称 独り言の回復
講師 布施琳太郎
開催方法 オンライン配信+視聴期限なしのアーカイブ動画
時間 16:30〜18:30
日程 第1回:2024年12月7日(土)
第2回:2024年12月21日(土)
第3回:2025年1月4日(土)
第4回:2025年1月18日(土)
第5回:2025年2月15日(予定)
第6回:2025年3月1日(予定)  
料金 A 全回セット:10,000円
B 20歳以下or大学学部生only 全回配信セット:6,000円
※すべてに当日資料(PDF)の配布を含みます
※Bコースは自己申告です
割引 11月29日23時59分までに申し込まれた方は1000円引きといたします
申込 Googleフォーム
主催 布施琳太郎
問い合わせ rintarofuse@gmail.com



ラブレターを書くこと。それは独り言を漏らすのと似ている。独り言は「私」を二つにする。

人は独り言を口にしながら、自分の声を聴くのだ。「もう一度、会いたい」。それはまったくの偶然に訪れる発話だ。思わず口にされた言葉は、本人によって聴き取られる。その瞬間にひとつの身体が分裂するのだが、この分裂こそが、逆説的に「私」の総合的な実存を回復させる。「やっぱり」「好きだな」。

布施琳太郎『ラブレターの書き方』のメモ、2023年


今日の社会において人間から失われたのは孤独である。差異や体系といったものが全面的に破綻し、すべてが幻想のなかで触覚に一元化された。終わりなき日常の一部となった突然のカタストロフィ。わかりやすいだけの物語に傾倒していく大衆。そして主体の消去。こうして自分が自分に話しかける時間――孤独は失われた。新しい貧しさのなかで身体だけが浮遊している。

布施琳太郎『新しい孤独』2019年


芸術は繋がりを育むためにあるのではなく、これまでにない仕方で繋がりを断つためにあるのだ。それこそが新しい孤独であり、感染隔離の時代に芸術が果たすべき役割だ。

布施琳太郎『感染隔離時代の芸術のためのノート』2020年

各回概要

調査時点で執筆したため予告なく調整されることがあります

第1回 再考:新しい孤独
布施琳太郎が2019年に発表した論考『新しい孤独』(第16回「美術手帖」芸術評論募集受賞)は、現在までの布施の活動を決定づけているのだが、その批評的な評価は新型コロナウイルスの感染拡大による全地球規模の隔離生活やソーシャルディスタンシングによって自動的に高められたものだった。5年以上前に執筆した本稿だが、そこに想定以上の同時代性(あるいは先見性)があったのは事実だ。しかし「コロナ前」であるからこそ発想できたアイデアも数多く含まれている。そもそもは24歳の自分がその人生のすべてを賭けて歴史へと歯向かっただけの試みである。本稿の可能性と問題点を再考しながら、筆者自ら書き直すように読み直すことで、一連の講義の足場をつくりたい。
第2回 独り言の対義語——寺山修司の演劇論
詩人で劇作家、映画監督で…と肩書をあげていくとキリのない寺山修司が晩年に刊行した演劇論集『臓器交換序説』(1982年)の前書きは、当時のニューヨークの路上で終わることのない独り言を虚空に向けてつぶやく人々についての記述に割かれている。そこでは1960年代の演劇で、病的なまでの独り言への対処療法としてダイアローグが位置付けられていたことが確認された上で、それでは解決できない問題が示される。寺山によるその他のテクストや実践を踏まえた上で、彼が何を考えていたのか?を考えることで「独り言」の定義と用法、つまり「独り言の対義語」を考えたい。
第3回 被害/加害の脱構築——頂き女子“りりちゃん”、大森靖子、岡本太郎
この一年で触れた表現のなかで最も胸を打ったのは「頂き女子“りりちゃん”」を自称していた渡邊真衣被告による獄中手記だった。そこにあるのは加害と被害という非対称な関係の脱構築……つまり加害者の被害者性の発露だったといえる。もちろんそれが一方的なものであることは否めない。だが胸を打ってしまうのだ。そしてこうした関係の逆転は戦後美術、ひいては前衛芸術の常套手段だったことも思い出してしまう。しかし何かが決定的に違う。そこで歌手の大森靖子の一連の表現を蝶番としながら、関係の逆転を可能にする「独り言」的な叫びについて考えたい。
第4回 再帰性(私が私を参照すること)の芸術
哲学者のユク・ホイは、西洋とは異なる宇宙技芸についての哲学的思考で知られているが、なかでも重要に思えるのはコンピュータサイエンスにおける基礎的な考え方でもある「再帰性」だ。ホイによれば「再帰性は、自分自身へと立ち返る循環運動を特徴としている。この運動は自身を規定することを目的としているが、同時に、たえず偶然性に開かれている。だがこの偶然性が、かえって自身の特異性を規定するのだ」。この回では、いくつかの芸術作品も参照しつつ、独り言という行為遂行が再帰性という概念に対してどのように働きかけるのかを考える。
第5回 オナニスト、あるいは独りであることの複数性
これまで度々論じてきた自慰行為をする身体、つまりオナニストについて再考する。自慰行為にふける人間は、自らの右手を、自分自身であると同時に他者の到来として二重化している。当たり前のことのようでいて、かなり特殊な状況である。そしてこれは僕が独り言の特徴として直感した定義とかなり近しい。オナニストの行為は、自分自身の性器のかたちに規定されているのだが、それと同時に自分とは異なる他者の身体そのものとして振る舞おうとする。独りきりでありながら自身を二重化しようとする試みなのだ。
第6回 第六回 万博的想像力の批判とランドアートの拡張(仮)
ここまでの講義を踏まえて20世紀の文化や思考を規定してきた万博的想像力を批判する。なぜなら万博とは「声を集めること」に規定されているからだ(準備中、大幅変更の可能性あり)。


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