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建築訓読:偶然性のミュージアムを作るために

この数年、僕は自ら書いた詩やラブレターを映像化、展覧会化、書籍化することで活動してきた。詩とは、既にある言語を用いて未知の世界を創出する試みだ。世界AをB、C、Dへと変換したり、複数化した世界をXへと凝縮すること。詩においては、本来手に取ることのできないはずの「谷間を流れる川の水面を揺らす風のつめたさ」を誰かの生活や無為な死と関係させることができる……だが「既にある言語」とはなんだろうか?

日本列島における文化は、既にあるものとは異なる言語の受け入れによって形成された。それは奈良朝であれば漢文訓読におけるテニヲハ、ヲコト点などであるし、近代化における土木技術、建築、美術などの造形言語の流入、あるいは言文一致運動だ。漢文がそうであったように、この列島に住む人々は他の言語を訓読する。他言語を自言語へと変換する法則を暴力的に構築する。漢文訓読において、そこにあるにもかかわらず無視される「置き字」(「而」や「於」など)のように何かを透明にしながら、本来の順列を入れ替えることで受け入れるのが日本列島の文化である。その操作は詩を書くなかでなされる詩人の言語操作と似ている。

他言語の訓読化は国立西洋美術館、その設計者であるル・コルビュジエに対してもなされた。そこで本作は国立西洋美術館の図面調査に基づいて、過去の訓読化(本来の設計意図から逸れた新館や企画展示室の増築)を踏まえつつ、新たな建築訓読を詩的な試みとして実践したものだ。まずコルビュジエが設計した6×6マスで構成された双六(すごろく)のような美術館に対して一篇の詩として漢字を配列する。「日指刺水面作」(sun-finger-stab-become-water-surface)。そしてそれらの漢字の組み合わせ=展示室をめぐる順序の偶然的な再配列可能性において、その都度ごとに異なる意味を生じさせる文字列=詩をインスタレーションを通じて表現する。

こうした作品制作をしようと思ったのはコロナ禍以降、大量生産されたバーチャルミュージアムの価値を考え直したかったからだ。バーチャルミュージアムとは既存建築の情報化であり訓読である。だが未だ不器用な訓読でしかない。そこで本作は美術館建築の訓読、つまりバーチャルミュージアムが一篇の詩としてつくられるべきだという考えに基づいてつくられる。ミュージアムとは、ただひとつの歴史を語るためにあるのでなければ、無数の思想の対比検証するためにあるのでもない。共にあることができないはずの生者と死者、過去と現在、異民族間のコミュニケーション回路としてある。

二つの異なる言語において、一方が他方の言語を訓読化することは、片想いの相手にラブレターを書きながら、繰り返し言葉を選び直して紙を汚しながら思い出を美化する時間のように身勝手な妄想である。しかしその身勝手さは自身のあり方、考え方を変える。二人の関係を変える。その想いが実らないとしても、そうして変化してしまった妄想のキメラの唸り声だけは残る。同じに見えて、どうしようもなく異なる二者のあいだに虚の同質性を制作すること。僕はそれが芸術だと思っている。



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布施琳太郎 Rintaro Fuse
アーティスト。1994年生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、社会を成立させる日本語やプログラム言語、会話などを操作的に生成し直すことで、映像作品やウェブサイト、絵画などの制作、詩や批評の執筆、展覧会のキュレーションなどを行っている。